Quartette page8
無作為に吹き荒れた魔力の爆発は、数秒で収まりを付かせた。海原を叩き伏せる嵐のような魔力の氾濫(の後には、耳鳴りのような遠い雑音を残した静寂があった。
残された魔力の全てを余さず解放して抗魔呪文(を張り、辛うじてながらに自身と夫とウヅドを守り抜いたフェリア。しかし精神力は根こそぎ狩り殺(がれ、暴れ馬を力尽(くで押さえ付けた時のような耐えがたい反力にやられ、今は疲労による喘(ぎ声を細々と洩らして床に伏せていた。五感の全てが一時的に奪い取られていたが、混濁した意識がそれを自覚する事さえも許さなかった。
今、床の上に無傷で立つのは、必要以上に強力な抗魔呪文(効果を有する四角法陣(に守られていたウルトシエだけ。彼女は、空(の一点を凝視していた。
目が合った。眼球の全てを黒で塗り潰した、異種異様の双眸と。その瞳に吸い込まれるように思えたのは、美しかったからでも、逆に醜悪だったからでもなかった。単純に瞳の裏に在る壁まで、彼女自身の視線が貫き通していたから、そう錯覚しただけ。
異形の両眼が、疑いようも無く見開かれていた。四肢は変わらず丸め、翼は折り畳み、体はあやふやに透過したまま。黒曜石(か黒金剛石(のような瞳を覆う目蓋(は、確かに押し開かれていた。
魔神は、厳かに唇を動かした。
――解放者ヨ、貴様ノ願イヲ言エ
空気ではない何かを震わせるようにして、声が届く。その声は男でも女でもなく、静かでも煩くも無く、優しくも厳しくも無く、高くも低くも無く、響くでも消えゆくでも無かった。例えて言うなら手書き文字のように癖のある文字では無く、市販の印字装置(で欧活字(文字を印字したような、そんなひどく捉え難(い声音
――ソノ願イガ、我ガ呪縛ヲ断チ切ル、最後ノ鍵トナル
それには答えず、ウルトシエは黙って振り返る。背中で伏せるウヅドを見る為に。
枕元に膝を突き、思いの他軽い彼の頭を膝に乗せた。
「フン……小娘の……膝枕……か……。悪い……気は……せ……んな……」
端々を途切れ途切れに、ウヅドはウルトシエの顔を見上げた。瞳の色が淡くなっているような気がするのは、ウルトシエの気のせいであろうか……?
「バカ言ってんじゃないわよ……ホラ、アンタの悲願でしょ?好きな事お願いしなさいよ」
口の端を釣り上げ、必死に悪態面(を作って見せた。
「願い事……か……」
言葉を絞り出しながら、不恰好な笑みを形作った。蒼白(んだ顔色と相俟(って、それはひどく歪んで見えた。
「悪いが……ワシの代わりに……頼むわい……」
言葉の中に虚無的な空気が入り込む、弱々しい意外な回答。
「ちょっと……何言ってんのよ?無駄な体の頑丈さくらいしか特性(の無い土妖精(が、この程度の傷で動けなくなるとでも言うつもり?」
「相変わらず……口が悪いのォ……」
左の掌を、優しくウルトシエの頬に重ねながら言った。ひどく……ひどく、震えていた。――
「この不良品(……さっきの涙について言及するまで死なないって約束したの、もう忘れたの?」
「フ……ン……。樹妖精(の小娘……との……口約束を……ワシが……守るとでも……思うてか?」
右の掌を、ウヅドの手の甲に重ねた。ひどく……ひどく、冷たかった。
「何勝手な事を。私がそんな事……」
「勝手ついでに……頼まれてくれ……。ワシの……願いを……代わりに……に……」
ウルトシエを遮ってまでの言葉だったが、そこまでだった。一際大きく咳き込むと、喉の奥から沸き立つ痛烈な熱さに、彼は身を大きく仰(け反らせ、ウルトシエの膝から頭を落とした。仰向(ける彼の口内からは、黒く濁った生命の残骸が流れ落ちた。
「ウヅド!!」
随分と遠くから聞こえるウルトシエの悲鳴。ウヅドは、手を伸ばせば届く所にある死期と、今まさに対面していた。
(テインも……フェリアも……悪かったのォ……)
罪悪感が、二人への謝罪を生んだ。それでも彼は、最期まで自分の初志を貫く事を選んでいた。
「ウヅドォ!ウヅドォォ!!」
何度も何度も、彼の名を呼ぶウルトシエ。物体同士の境界を明確に切り離す事が出来なくなった視界ではその見慣れた姿も確認する事はもう出来ないが、確かにそこにいる事だけは解かる。
「あ……」
幽(かに洩れ出る呟きだったが、絶叫の最中にあってもウルトシエは聞き逃さなかった。彼女は、ウヅドの言葉に耳を傾けた。
「あとは……頼んだぞ……ウルトシエ……」
「ちょっと……気安く名前で呼ばないでよ……虫酸(が走るじゃない……ねェ……ねェってばさ……何無視してんのよ……返事しなさいよ……。狸寝入りなんてしてると、本当に息の根止めちゃうわよ?解かって……んの?……この……バカ……。……」
呆然とした口調に、少しずつ混じり合う哀しみの嗚咽。理解する事を拒む理性と、感じ取る事を強要する本能。結局勝ち名乗りを上げたのは、何よりも確かな現実。――ウヅドは、既に事切れていた……。
憑かれたように何事か――その多くが、ウヅドへの悪態――をブツブツと呟きながら、ウルトシエは泣いていた。大音量で泣き叫ぶのではなく、哀しみを閉じ込めるように啜り泣いていたのは、泣き叫ぶだけの気力と体力が既に無かったから。
冷たく暗い大空間の中で、ウルトシエは悲しみの精霊(のように一人寂しく涙を流していた。
――解放者ヨ
哀しみを割って、声が届いた。すっかり忘れていたが、最後の牢獄の鍵を開けてもらう事を今か今かと待ち侘びる異形の魔神の存在。
――樹妖精(ノ小娘ヨ
――サァ、願イヲ我ニ言ウガ良イ
「……願……い……」
――ソウ。
――限リアル命ヲ時間ノ束縛カラ振リ解ク不死ノ力(カ?
――ソレトモ――
一呼吸おいて、魔神は繋げて言った。浮かべた表情が果たして笑みだったのか。それは解からない。感情の表現が人間と同じであるとは限らないから。それでも、その表情はひどく陰惨で残忍で、それでいて無邪気に見えた。
――汝ガ憎ム命ヲ、遍(ク枯渇サセテヤロウカ?
生命を滅ぼす。ウヅドの悲願。託された約束。
その歪んだ願いを成就させれば、或(いはウヅドの待つ場所へと逝けるやも知れない。
そんな考えを浮かべながら、ウルトシエはもう一度ウヅドを振り向き見た。命の絶えたウヅドの亡骸。冷たくなった、命無き肉の塊。
「ウヅドのいない世界なんて……要(らない……」
ボソリと、ウルトシエは呟いていた。剣戟の大音響さえ掻き消すこの大空間では、その声はあまりに稀薄だった。
――何ト言ッタ?
魔神の問い。どうと言う事も無い。急(かすわけでも詰問するわけでもない。
「ウヅドのいない世界なんて、要らない!!」
今一度、はっきりとした口調で。
――ナラバ、汝ハ何ヲ願ウ?
「私の……私の願いは……!!」
泣きながら、魔神を睨み据えた。そして、彼女はその願いを口にした。迷う事無く、
「命を!!」
続く言葉を受け、魔神は満足げに、大仰(に頷いて見せた。
暗い道行き。何処へ続くのか?何処から続くのか?知れる事が無かったとしても、これが「往路」では無く「復路」である事だけは間違い無かった。根拠が在る訳では無く、感じ取っただけだ。冒険の最中で危険を感じ取るように、漠然とした勘で取っただけ。
だが、これが往路だとしたら、手土産(の一つも持参していなかったし、土産話の一つも出来やしない――否、たった一つだけ、土産話を拵(えている。「何も覚えていない」事だ。
と、唐突に道が開けた。それまではただ暗がりに満たされた「闇」の道程(に、一切の前触れも無く光が満ち、闇を払った。
眩(しい……と思うよりも早く、その光も失せて、見慣れた闇が広がった。――闇に対して「見慣れている」も「見慣れていない」も無いやもしれないが、前者と後者の闇は明らかに異質で、その違いはそんな形容しかしようの無い違いだったとしか思えなかった。
重々しい呻き声を上げて視界を閉ざす目蓋を開けると、真っ先に飛び込んで来るのが涙で濡れた顔を不安そうに歪めたウルトシエ。美人が台無しだと思うには、彼の美的感覚は些かにずれていた。
ウルトシエは泣きながら抱き付いた。恥も外聞も無く、子供のように目一杯に泣きながら。思い掛けないウルトシエの行動に、彼は柄(にも無く弱り果てたような困惑を浮かべた。
致命と成り得る外傷は全て癒されていた。失った血の巡りも、幾許(か――死なない程度には充分に――回復していた。残っているのは失血による重度の疲労と、呆れるくらいの倦怠感。
その倦怠感が何であるのかは知らなかったが、何に起因するのか、彼には――ウヅドには解かった。
生還による極度の精神消耗。彼は、字面(に誤る事なく「生」き「還(」ったのだ。
ウルトシエの泣涕(の音の中で、ウヅドは静かに尋ねた。
「小娘……ワシの頼みを、聞かなかったな?」
さて……彼の今の心境は、一体どの様にして表わしたら良いのだろうか……?喜怒哀楽の全てが織り交ざっているようでいながら、その全てが抜け落ちているようでもあり――兎に角、単純な彼にあって、極めて複雑な心境であった事だけは疑いようも無かった。
そんなウヅドの心の内を知ってか、それとも知らずにか。ウルトシエはこう答えた。
「本っ当に、馬鹿ね。気高き樹妖精(の血族たるこの私が、地べたに這い蹲(っているような土妖精(との口約束なんて……守ると思うの?」
耳元で囁かれる小憎らしい言い分は、不思議と耳に心地よかった。
ウヅドは、彼女の体を引き剥(がしたりはせずに、優しく背中を抱き、髪を撫で付けてやった。
「この……馬鹿モンが……」
「馬鹿は……ウヅドの方だモン……」
思いもかけずウルトシエの子供っぽい言い分に、ウヅドは口元を顰めて笑った。
――今は、最高に気分が良かった――
どう最高かと言うと、目の前で泣きじゃくる樹妖精(種族の小娘に――大変に珍しい事だったが――感謝したくなる程に。ただ単に「助けられた」と言う事実がそこにあるだけだったならば、きっと感謝(ふうには思わなかったはずだ。事実、彼(?)は今まで、幾度となく恩を受けながら、その尽(くを踏み躙ってきた。そこに良心の呵責は無く、そもそも良心なんて物を、一度たりとも擁(いた事は無かったが。
忘れもしない、あの屈辱。光妖精(どもの小賢(しい姦計(に嵌(められ、このような地下空間に追いやられた事。白髪の半樹妖精(の小娘ごときが見せ付けた凄絶な魔力の前に恐怖した事。何より、四百年の永きに渡って夢幻牢(などと言う最悪の牢獄の中に繋がれた事。
その屈辱から開放してくれたこの樹妖精(の小娘には、感謝してもし尽くせぬ恩を感じた。
だからこそ、彼(?)はその恩を返す為にもこう考えた。
――苦シマズニ、一思イニ殺シテヤロウ
と。
本来ならば、久し振りに出会ったその命を玩(び、嬲(り、蹂躙し、永劫の苦しみを与えてジックリと腰を据えて遊ばせてもらいたい所なのだ。彼(?)としては、驚く程の感謝の表現。
感謝の気持ちを一杯に膨らませながら、彼(?)は、命を枯らす為の虐殺系呪文(を行使しようと、重く冷たく響く呪唱(を紡ぎ始めた……。