氏の言霊使い

「……チッ……胸クソが悪くなるぜ……」
 位置場の話と、静かに寝息を立てる楽志の姿とを照らし合わせ、形命は激しく舌打ちをする。もしも彼がその場に居合わせたのなら、我慢なんかせずに、その場で殴り倒していたであろう。蹴り飛ばしていたであろう。踏み潰していたであろう。ゴミクズのように捨てていたであろう。それほどまでに、収まりのつかない怒りだった。
「……どうして……人って、そんなに残酷になれるのかしらね……?」
 楽志の枕元。、霊見が彼女の蒲団を丁寧に掛け直しながらに尋ねてみた。当然、その問いに対する解答など得られるはずもなかった。もしもその切れ端だけでも得られたのなら、どうにか改善する道が見付かったかもしれなかったが――それを言っても詮無き事であろう。
「で、どうすんだ、位置場?このままソイツらを放っておくのか?」
「いくら俺でも、そこまで甘くは無い……。復讐って手段でしかお灸を据えてやれないのは、やっぱり俺自身もまだまだ人間が出来ていないって事だろうケドさ。それでも、それくらいでなけりゃ、俺の腹の虫が収まらない」
 位置場の瞳が、底冷えするように光を宿す。
 楽志の唇から時折洩れる、呻き声にも似た寝言。悲しげに……儚げに……苦しげに……寂しげに……。幾度も幾度も、繰り返される。
「その前に……。楽志を助けてやる方が先決だけどな……。霊見、頼んだぞ」
「誰に物言ってんのよ。馬鹿にしないで」
 憎まれ口は、ちょっとした八つ当たりも含めている。三人娘に対する怒りがその原因である。
 霊見は、目蓋を閉じる。そして、大きく息を吐き……吸い……吐き……。
 繰り返し、繰り返し。そして――


(楽志って呼ばないでよ!)
 位置場に叫んだ。
(楽志って呼んでよ!)
 クラスの皆に叫んだ。
 彼女の心を蝕む、二つの感情。
 楽志の名前を好いている。名付けてくれた両親に感謝したい。
 楽志の名前を嫌っている。名付けてくれた両親を罵倒したい。
 荒れ狂うようにして遷り変わる二つの感情の渦に、彼女の弱く幼い心は傷付けられ、磨り減っていた。生きる事を拒み、死を選び取ってしまう程に。
(助けてよ……)
 彼女は、小一時間程歩き続けたのだ。死に場所を求めて。そこが、血を洗い流すシャワー室だった。
(死なせてよ……)
 彼女は、小一時間程歩き続けたのだ。助けてくれる暖かな場所を求めて。そこが、暖かな産湯で満たしてくれるシャワー室だった。
(生きたくないよ……)
(死にたくないよ……)
 瞳は涙を流し、顔は笑顔を零す。
 魂が泣き、心が笑う。
 大好きな名前が憎らしい。大嫌いな名前が愛らしい。
 常に相反する、二つの行動と感情。乾き切っていない粘土細工のように、ヒビ割れたガラス細工のように、彼女の心は軋みを上げていた。今にでも、粉々に砕けてしまいそうな程に。
 楽志――
(楽志って呼ぶな!!)
 呼ばれ、反意を返す。
 楽志――
(楽志って呼んでよ……)
 呼ばれ、同意を返す。
 ――誰に……?小さな疑念で心に波紋がよぎる。閉ざされた心に、誰が呼び掛ける?
 近付いてくる、懐かしい気配は一体何?
 懐かしい……温もり。
 積もり積もった……憎しみ。
 写真でしか見た事はなかった。少なくても、記憶には残っていなかった。
 愛しくも忌々しい両親の姿。愛憎が一体になる両親の姿。
 両親の姿が、楽志の目の前に在った。あたかも使い古されたテレビのように、時に歪み、時に乱れる、不安定な両親の姿。
(楽志……ゴメンよ……)
 父さんが言う。
(どうして、楽志なんて名付けたのさァ!)
 父さんに言う。
(楽志……許して……)
 母さんが言う
(嬉しかったんだから……)
 母さんに言う。
 好きになれなかった、大好きな名前。
 嫌いに成れなかった、大嫌いな名前。
 聞きたかった。もう二度と聞けるわけが無い。そうやって今まで自分に言い聞かせて来たから。どうしても聞きたかった。
 そして、決めたかった。
 自分の名前に、決別するか。
 自分の名前と、伴に歩むか。
 どうして「楽志」の名前を付けたのか、くれたのか。何を聞くよりも何を話すよりも。今の彼女には、それが必要な現実だった。
(どうして「楽志」なのよ……?知ってる?私がこの名前のせいで、どれだけ苛められてきたのか?)
 涙ながらに語る彼女に、両親は悲しそうに瞳を背けた。
(解かっていた……でも……何も出来無かった……許して欲しい……)
(知っているわ……でも……なにも出来ないの……誤らせて欲しい……)
(そんな事、どうだって良い!どうして「楽志」なの?!どうしてこんな変な名前なの?!普通に付けてくれても良かったじゃないの!!)
 喚き叫び、両親に食って掛かった。
 心が泣き続ける楽志の姿が痛々しくて、両親は心の苦痛で顔を歪めた。彼等の感情に呼応してか、その姿が弱々しく揺らめいた。
(お前の事を思って……)
(あなたに、幸せになって欲しくて……)
 二人は、小さく呟いた。今の楽志の姿を見ていると、とても自分達の言葉が真実を語っているようには思えなかった。そう……悲しく自覚してしまう。
(何でなの?どうしてなの?)
(答えてよ!教えてよ!)
(話してよ!!私に聞かせてよ!!)
 もどかしい。どうして両親は話してくれないのだろうか?もしかしたら、ただ面白がって付けただけの「つまらない」名前なんだろうか?そんな最悪な予感が脳裏の片隅を過ってしまい、両親の苦悩を汲み取ってやろうと言う心のゆとりさえ、彼女は持ってやれなかった。
(楽志……)
 父さんが、今度はしっかり楽志の顔を見て、決意を込めて告げた。
(楽志の名前を贈ったのには、意味があるの……)
 そして、母さんも。
 二人は、声を揃えた。
((たった一度の人生を……『楽』しく生きる……。そんな『志』を持って欲しい))
(お前には幸せになって欲しいと思って付けたんだ……)
(強く生きて欲しいと思って付けたのよ……)
 その瞳は真摯に。その心は実直に。ただ、楽志が産まれた時のあの感動を思い返すようにして、二人は語った。
 その両親の言葉が――
(本当に。私の為を思って付けてくれたの?)
 胸に暖かかった。
 楽志は、その言葉だけが聞きたかった。
 「楽志」の名前が想いの詰まった贈り物であると言う言葉を両親の口から確認したかった。
 それが自分の為を想って付けてくれた名前なら、どんな奇妙でおかしな名前でも良かった。そう思っていた。
 でも――それを聞けなくて。今まで、憎んできたのかもしれない。好きになれなかったのかもしれない。
 涙が、流れた。
 哀しくてではなく、嬉くって。随分と、久し振りに流す涙だった。
 胸を侵し蝕み続けていた黒い物が、この一瞬で融けて消え去ってしまったような気がする。
(あ……りが……と……)
 心の底から告げたい言葉が、涙に濡れて言葉にならない。はっきりとした言葉で告げなくても、今は告げる事ができない。それがもどかしくって悔しくて。余計に涙に濡れる。
 涙をとめよう。思っても、とめどなく流れる涙が、いつまでも頬を濡らす。
 そんな楽志に……両親は微笑んでくれた。その涙にたっぷりと、楽志の気持ちを見て取って。
(お前のこれからの人生に、幸せがあらん事を)
(あなたのこれからの人生に、楽しみがあらん事を)
 最後に一言、(有り難う)を付け加え。
 二人の姿は消えてしまった。


「お父さん!お母さん!」
 ガバッと。勢い良く跳ね上がる。分厚い蒲団が、それに合わせて同じく勢い良く跳ね上がる。頬に残る熱い温もりが、自分の涙であると言う事に気が付いたのはその時。
(……夢……だったの?)
 そう思うと朧げなあの情景。しかし、妙に現実味に溢れる、奇妙な夢。
 涙を恥ずかしそうに拭いながら、そんな事を考えていた。
「お目覚めかい?楽志」
 別に夢であっても良かったのかもしれない。今はそう呼ばれても、静かな気持ちで受け入れられたから。
 そんな楽志の態度の変化に、位置場は優しく微笑んだ。その膝には、大きく息を上がらせた霊見が寝こんでいた。
「その様子なら、会えたみたいだね。御両親に」
 驚き、位置場に向ける瞳を大きく見開いた。どうしてそれを?その見開かれた瞳が物問いたげに呟いていた。
「霊見のお陰だよ。『霊』を『見』を書いて霊見。そして同時に、見せる事だってできる。お前に知って欲しくってね。君の御両親に出張ってもらった」
「あ……あなた達は……?」
 呆然と呟く楽志に対して、位置場は少しおどけたふうに肩を竦ませ、簡単に答えた。
「俺は、言霊使い。名前に注ぎ込まれた想いを追求する一族。人からは、『氏の言霊使い』と呼ばれている」
「うじの……ことだまつかい?」
「さて……と。俺はもう一つやりたい事があるからね。詳しい説明はまた明日」
 言葉を鸚鵡返しに呟く楽志に軽くそう言い残して。
 そのまま姿を消した。
 楽志が驚く間もなく、霊見の頭が畳に落ちる音が鳴る。
 後頭部を押さえて毒づく霊見と、呆然と事の成り行きに取り残された楽志だけが、その部屋の中に残された。


to be continued...

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