氏の言霊使い

「何?!何なのよ、ココは!!」
 浮美江は喚いた。
「解からないわよ!!」
 千恵満は叫んだ。
「ちょっと!どう言う事なの?!」
 琴芽は怒鳴り散らした。
 コートを纏う出で立ちは見窄らしく、身嗜みには無精を背負う。しかし眼の前の男の立ち居振る舞い佇まいは、どこか優雅であったが、何よりも人を見下すような僭越さがあった。
 男の――位置場のその態度は、数時間前に見たあの少し情けないと言う印象のあった男とは明らかに異種の物。彼女達は位置場から受ける圧迫的な緊張感に負け、惨めな程に取り乱していた。しかし、そこに同情を入れ込むだけの寛容さを、位置場は胸中に有してはいなかった。
 彼女達は今……何処かに居る。此処が何処なのか、知る者は居ない。
 周囲には建造物と呼べる物どころか、オブジェと呼べる物さえなかった。
 天井も無ければ床も無い。そのクセに浮遊感や落下感覚も無く、日常を受け入れる程度の五感しか持ち合わせていない彼女達には、そこはただ「気持ち悪い」居心地だけが存在した。
 四方八方、上下左右、東西南北。考えられ得る全てを向いても、紫や青や赤や緑や黒や白や黄色。地上に存在し得る全ての色に境界立てて彩られる。それらは不規則に流動して、あたかもスライムのように蠢いていた。
「今から……お前達に教えてやる。名前が、一体何を意味するのか」
 がらに似合わぬ荘厳な言葉は位置場から吐き出される。
「我が『言霊』の姓に賭け、お前達の名前に意味を与えてやろう」
 それは、あたかも罪人を裁く裁判官の如く。重厚に腹の底まで響く位置場の声に、三人は身が凍えるような思いに見舞われた。
「まずは浮美江」
「な……によ……」
「お前からだ」
 虚勢を張る浮美江だが、位置場はそれさえ気にも留めない
「『浮』かぶ『美』しさが行き交う入り『江』。込められたる想いは体も心も美しき人々との出会い」
 そんな願いが、『浮美江』の名には込められる。
 しかし、それが彼女に相応しいとはとても思えなかった。だから、こう宣言する。
「お前に相応しきは……腐満恵。お前のその『腐』敗に『満』ち満ちた心には、それ相応の『恵』みに見舞われるのが似合いだ」
 位置場の宣言の瞬間。腐満恵は、三人の前から姿を掻き消し、同時に、腐満恵の前から三人の姿は掻き消えた。
 腐満恵の見る光景。そこは――
「ひいいぃぃぃぃ!!な、何よ、これ!!」
 見るからに醜悪な、定形不定形様々な生命体――かどうかも正直、定かではなかったが――。時にうねり、時にざわめき、それでも少しずつ、少しずつ、腐満恵に向かってその距離を縮めていた。
 滲み寄るそれらは、ただおぞましかった。
「こ……来ないでよ……!!」
 恐怖に戦慄し、後ずさりながら声を必死に絞り出す。
 引き攣った顔に掌を当て、恐怖から目を反らそうと躍起になる。
 ズルリ……。掌が、異様な感触を感知しながら滑った。恐怖によって涌き出る脂汗だと思った。それを拭おうと掌に視線を落とす。
「……………!!」
 いっその事、気を失ってしまいたかった。しかし、何故か目は冴え冴えとし、意識は確実に覚醒する。
 掌にあるのは、強烈な腐臭を漂わす肉汁。濁った肌色に染まったその異物は、赤黒い液体が付着していた。
 ベチョリと、また『それ』が落ちた。
 恐怖に動作が緩慢になる。それでもやはり――どころか寧ろ、さっきよりも鮮明に意識が覚醒する。
 巡る思考が、『それ』の正体を気付かせる。
 もう一度落ちた。今の自分の顔を、とても見たいとは思えなかった。
「イ……」
 漸く、すべき事を思い出す。恐怖に、叫び狂う事だ。
 腐敗した肉汁の重みに耐え切れず、いつの間に変色をきたしたのか、腐満恵の左掌の腐肉が滑り落ちる。
 少しだけ濁った白色の骨の生々しさが、決して濁る事なく瞳の中に映った。
 怪奇生物達が、ジリジリと滲み寄る。
「イヤアアアアァァァァァァァァァァ!!!!!!!!!!」
 腐満恵の叫びは、しかし波のように押し寄せる怪奇生物達によって包み隠された。


「千恵満」
「あ……アンタ……!浮美江を何処にやったのよ!!」
「幾『千』もの『恵』みに『満』たされて欲しい。簡潔にだが、親からの愛情を沢山に捧げられた、良い名前じゃないか」
 千恵満の抗議には耳も貸さない。ただ淡々と自分の仕事をこなすだけだった。
「しかし、お前にはそれも過ぎた名だ。今この時を持って、お前に相応しき名を与えよう」
 ビシッと、千恵満に指を付き付ける。
「血笑魅。『血』によって『魅』せられる狂気を持って『笑』い続けるが良い」
 瞬間。カラン……と、乾いた金属音が血笑魅の耳についた。
 目の前に転がり落ちる、綺麗に輝く白銀色の刃物。刃渡りにすれば30cmに及ぶか及ばないか。それだけが、血笑魅を取り巻く世界に存在した。腐満恵の姿も琴芽の姿も無く、当然、位置場の姿も無い。
 我知らず、それに手を伸ばす。伸ばしたくて伸ばしたわけではない。寧ろその奇妙なまでの気味の悪さに、一瞬であろうとも触りたくも無い程の嫌悪感さえ感じる。
 どうして、それを拾ってしまったのか。えも言われぬ不快感に襲われはしたが、その刃物をしげしげと見詰めてしまう。
 光源も無いのに何故かランランと輝くその刃は、鏡のようにして血笑魅を映した。
 刃を空に掲げてみるが、特に変わった所も無い。
 柄を逆手に持っても、やはり変わった所など無い。
 それを思い切り良く振り下ろした時、漸く変わっている何かを理解した。
「え……?」
 腹部に生じる、圧倒的な激痛。瞬間、余りの激しさに激痛その物を無視してしまう程に。
 変わっているのは、刃物ではなった。自分の中に生まれた、もう一人の自分の存在。
 刃物の切っ先は、狙い違わず血笑魅の鳩尾に縫い込まれていた。疑う余地も無い程の致命傷。
(ギャ……)
「ハハハハ……」
 限りない激痛に、理性は悲鳴を上げようとする。見苦しくても、自分でも気味が悪いと思える程の悲鳴を上げたかった。
 が、口から漏れるのは笑いだった。無性に可笑しくて、笑わずにはいられない。自分の腹に突き刺さる刃物が、なんだかとても面白い何かに見えた。彼女は、狂おしい程の快感に震えるようにして、薄ら笑いを浮かべていた。
 勢いを弱めず、力一杯に刃物を引き抜いた。その際、捩じりを加える事も忘れない。
 当然、走るのは激痛だ。噴水のように勢い良く、真っ赤な水が腹から吹き出る。
 弓形状の赤い軌跡を描いて振り上げられる刃物を目で追う。刃物の切先は、今度は喉元にを狙う。そうと理解できるのは、自分がそう考えているから。
(やめてエエエエエェェェェェェェェェ!!!!!!)
 恐怖に震える絶叫。しかし、おぞましき事か、これから行おうとする事を喜び勇んで受け入れる自分がいる。操られるのでは無く、自ら進んで受け入れる自分が。
 鋩が、喉に深く食らい込む。先の激痛よりも更に激しい激痛を味わう。
「アハハハハハ!!、アーッハッハッハッハ!!!!!!」
 確実に声帯を傷付けたはずであるのに、血笑魅の哄笑が止む事は無い。
(そ……そうよ!これは夢よ!これは夢なんだわ!!)
 忌まわしい現実から目を背け、必死に自分を願望へ戻そうと叱咤する。
 確かに、夢かもしれない。しかし、これが夢であるかどうかに、果たして意味があろうか?夢であれ現実であれ、今のこの激痛から逃れる術が無いのだから。少なくても、「現在」と言う時点で、その激痛は存在しているのだ。
 ドッ!血笑魅の右頬を刃物が突き、左頬まで貫通する。
 またしても響くのは悲鳴では無く哄笑。
 いくれもがいても逃げる事は叶わぬ拷問の世界で、血笑魅は更に流れ続ける己の血の温もりに包まれ、更に響き渡る狂笑に包まれる。
 血に魅せられて笑い続ける狂った自分を、刻まれ続ける激痛に悶え苦しみながら、血笑魅は延々と見つめ続ける……。


「琴芽」
「いや……止めてよ……」
「『琴』の『音』のよう、澄爽に満ちた子に育ちますように……。素晴らしい名前だとは思わないか?」
 諌めるような口調には、どのような感情も込められていない。
「しかし……お前は、その名に自ら泥を塗った」
「何なのよ!!名前の意味って、一体何言っているのよ!!返してよ!!浮美江と千恵満を返してよ!!私を帰してよ!!もう、ワケが解かんないよおおおぉぉぉぉぉぉぉ!!!!」
 憐れなほどの絶叫も……位置場の心には、何の感傷も生まれる事はなかった。
「呼止。お前には、人としての息吹の営みを失われる苦しみ。思う存分楽しむが良いさ」
 冷たく見下ろしながら、激しく吐き捨てる。
 一体、何がどうなっているのか。何もかもが理解出来ないままに事の成り行きは過ぎて行く。そして瞬間、位置場の姿は呼止の前から失せた。
「な……何だったの……?」
 声が掠れているのが解かる。砂消しゴムで擦り続けた紙のように、極限まで掠れる声。
「……ここは……?」
 呟いた時、気付かされる違和感。
「あ……あれ?」
 いつもならば意識せずともこぼれていた呼気は、どうした呼気が、どうした事か呼止の意志に逆らう。
 胸に残る古い空気に代わってどうにか絞り出した声は、老人のように嗄れ、掠れる。
「おかしい……な……」
 カハッ、 カハッ、と。吐き出す。乾ききった掠れ声を。
「変だ……な……」
 次第に募り始める不安感を振り払おうと、気丈にも声を絞り出す。何でも良いから喋っていれば、気が紛れると信じて。
「息が……」
 しかし、不用意に呟いた一言は、かえって呼止の不安を爆発させる結果となる。
「出来ない……!!」
 途端、胸を蝕み始める灼熱感。溜まった古気は胸を灼き、同時に喉を焦がす。文字通り息苦しい責め苦。
 膝を地面に――正確には"地面"と呼べるような代物は存在していないのだが――突き、口を地面に向ける。
 ゲハッ!ゲハッ!と、掠れ声を必死に吐き出す。謀反を起こして篭城を決め込む呼気から主導権を取り戻そうと躍起になる。
 しかし、呼気からの応答は無い。更に勢いを増して、呼止の胸を焦がし続ける。
「ぐる……じ……」
 胸の灼熱感に苦しみ、せめてそれを冷してしまいたいと、今度は逆に空気を求めて、空で喘いだ。
 が、呼止にはそれさえも許されなかった。
 母の胎内から性を受け、産声を上げたその瞬間から、疑う事無く営み続けられた酸素の循環が、今、彼女の中から失われていた。
「いやら……」
 掻きむしるようにして右手が胸を掴む。成長過渡にあって、決して脹よかとは言えぬ胸に走る激痛が、自分の爪の喰い込みであると言う事には気付かない。血の流れの温もりなど、胸の灼熱感に比ぶれば些末なものだ。
「ア゛オ……ボォ……」
 左手を口に突っ込んだ。苦しくて、見苦しさも衆知もかなぐり捨てて、古気を抜き出そうと躍起になる。空気を掴む事など物理的に不可能であると言う事に気付いていないようだ。
「ア゛エ゛エ゛エ゛エ゛エエェェェェ……オ゛エ゛エ゛エ゛エ゛エ゛ェェェェ」
 当然、胸を蝕む空気は出てこない。強烈な嫌悪感と共に込み上げてくる嘔吐感、そして吐瀉物の奔流。
 吐瀉物は熱く、呼止の喉を灼いた。左腕を伝い、下顎に流れの後を残し、そして地面に溜まった。
「あるい……らす……れれ……いりらく……らい……」
 呟く言葉に意味はあっても、繋ぐ言葉が意味を成さないでいる。
 汚物が作る水溜りに倒れ込み、神に縋って懇願する。その望みが完遂されたとしても、ただ、苦しみが長く、長く続くだけだと言うのに。
 一体どれほどの時間が経ったのだろう。呼吸が行なわれぬまま、意識だけは尚もクリアーに残した、無限にも似た地獄の苦しみの中。
 呼止は呟いていた。臨終の際にある者のように掠れ、皺を幾つとも無く刻んだ老婆のように嗄れ、必死に念じる呪詛のように細くなった声で。
「死……にたい……」
 と。しかし、その絶望の願いさえも許されず、呼止は苦しみを続けるのだった……。


 月が雲の合間から顔を見せる。それに付き随う満天の星達の光。今の荒んだ位置場の心には眩しすぎて、思わず目を伏せる。
「安心しろ。お前達が望まない以上、その名は時期に戻る。記憶には残るが、夢のように体の傷は消えてくれるさ」
 表札に『服部』の名が刻まれる一軒家。豪華ではないが、二階建ての綺麗な家だ。
 今から十分程前に遡る。浮美江――今は腐満恵か――達三人は集って座談会を決め込んでいた。その内容は、運良く持ち合わせがあったから良かったものの、奢ってくれるはずの位置場がトンズラした事に対する復讐の計画。
 その場に、唐突に位置場は現れた。そして、少女達の驚きの悲鳴が響くよりも速く、彼女達を幽閉した。
 場所は、位置場自信も詳しくは知らない。そう言った知識を持った人物からは「亜次元」とでも呼ばれているのでは?程度の認識しか持っていない。もしかしたら、何処か別の惑星なのかも知れない。誰かの夢の中なのかもしれない。しかし、そこに渡る事だけは出来る。
 言霊の姓に名を連ねる者達は、そこを「言霊の祠り場」と呼ぶ。
「そんな生易しい事で良いのか?」
「良いんだよ。楽志だって、自分の為に人を殺したいとも思わないだろうし、思って欲しくも無い」
「だけどよォ……」
 いつの間にいたのか、いつからいたのか。位置場の背後で形命は少々納得がいかないと言った様子だった。
「ま、お前がそれで良いって言うのならそれでも良いだろ。それよりも、だ。あのジャリども、お前の伝えたかった事、理解していると思うか?」
 問われ、位置場は首を横に振った。ひどく、淋しそうに。
「解かってくれるはずは無いだろうさ。もし今回の事だけで俺が伝えたかった事を理解できるようなら……『鳥に成りたい』と綴った楽志の心。読み取れたはずだからな……」
 心を失った子供に対する哀れみと哀しみのないまぜになった笑みをこぼした。
「今回はただ、あいつらの心の中に、トラウマを大きく残しただけさ……自分でやっておいてなんだが、可哀想な事だ」
「ハッ!!自業自得だよ。命があっただけでもめっけもんさ」
「……殺してやりたかったのか?」
「そうは思うが、殺しはしないさ。『命』を『形』取ると誓った俺が、名前に反する事など出来るか。それによ、お前さんの言う通り、楽志の為にも、殺したくはない……」
「だったら、この程度の処置で充分さ」
 言い残して、位置場はその場から渡った。今は、楽志の顔が見たかった。今日は心が荒みっぱなしで苦しかったから。きっと……今なら笑ってくれるだろう。
「ったく、あのロリコン君……。もっとこう、年頃の少女だけじゃなく、俺とかの事も考えろって……歩いて帰るの、結構寒いんだぞ?」
 今日の夜風は、また一段と身に染みる。


to be continued...

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