氏の言霊使い

「北村!」
 匂いを辿ってやって来たのは、北村の通う中学校の生徒用のシャワー室。女子校なのだから当然と言うべきかそうと言うわけでもないのか。女子シャワー室だ。
 学校の教師には見付かっていない。そう言うルートで来たのだから当然だが。
 シャワー室の中には匂いが立ち込める。女子中学生の若い匂いなどと言う変態染みた匂いではない。
 陰惨で汚らわしく、かつ生々しい臭い。
 全部で十三のシャワー。薄いしきいを介して仕切られる。全てが曇りガラスを嵌め込んだ脆い扉で閉ざされている。
 臭いは、一番奥のシャワーから沸き立つように臭う。時間は既に放課である。使用するべき人物もいないはずのシャワーが、温かな湯気を立てながら、音を絶やす事なく流れ続けている。
 最悪な状況で無い事を願い、ドアノブに手を掛ける。
 開かない。内側からロックされているのだろう。
 もどかしく思い、けたたましい音が響く事も厭わずに、位置場は扉の鍵を蹴り外した。
「北村……!」
 扉を開けた時、先の願いが虚しく崩れる現実を確認した。――否、この状況は臭いを追ってここに来る時点で、すでに理解していた事だ。ただ、自身の鼻が狂っていてくれる事を、強く願っていただけの事。
 方形のタイルで埋められたシャワー室。青を基調とした彩りの鮮やかさも、流れる緋透色の温湯のおかげですっかり台無しだ。温湯は床の中央に仕付けられた排水溝に、絶える事なく流れて消えていた。
 湯と青の色彩を赤く染めるのは、北村の左手から流れる、命の流れ。
 北村の右手から放り出されて床に落ちるカッター・ナイフの刃が、鈍く輝きを返していた。彼女の閉ざされた瞳から流れる涙は、温かな湯の流れに混じり、逆らう事さえなく流れ消える。
「北村!!」
 シャワーの栓をきつく締める。北村を抱き抱え、軽く揺すってみた。
 全身から力が抜けている。直接触れれば、温湯の上からでさえ体温が下がっている事が手に取るように解かる。それでも辛うじて体温を保っているのは、血を失い始めてからさほど時間が経っていないおかげであろうか。それとも、血小板の働きを妨げている温湯のおかげであろうか。
 どちらにせよ、危ない状態である事に変わりは無い。
(どうする?)
 位置場は考えた。心の動揺を落ち付けながら、自問していた。
(保健室に連れて行くか?)
(駄目だ。所詮学校だ。大した設備も整っていない)
 起こった自問に、即座に自答が返って来る。
(病院まで運ぶか?)
(間に合うわけが無い!)
(直接渡れば?)
(慣れない人間が渡れば、元気な時でさえ気を失ってしまう事だってあるんだ!!今ンな事したら、死んでしまうのがオチだ!!)
(医者を連れて来たら……)
(気絶するっての!!よしんば気絶しなくたって、混乱してて処置している余裕なんてあるか!!)
 (じゃァ……どうすれば……)
 「選択肢を挙げる」位置場と「判断を下す」位置場。一人で二人の自分を演じる事で、激しい討論が繰り広げられる。困難な状況が立ち塞がった時、位置場がよく使う思考手法だ。
(思い浮かばなければ、北村を殺すだけだ!考えろ!)
(くっ……)
 悩みあぐねた「選択肢を挙げる」位置場。焦れば焦るほど、思考回路は纏まらない。ただ、何の意味も無い単語の羅列だけが、グルグルと頭の中を回っては消えて逝った。
(……!)
 瞬間、「選択肢を挙げる」位置場は、ある一つの案を閃いた。良策だ。
(形命を連れて来る!!あいつなら渡りにも馴れているし、渡ればの直後に混乱する事も無い!!しかも、応急以上の傷の手当も出来る!!)
(承認!OK!実行!!)
 「判断を下す」位置場がゴーサインを出した次の瞬間には、位置場が行動しようと思うよりも早く本能が働いていた。
 視界が暗転した。それは、瞬きにも似た一瞬だけの幕下ろし。その一瞬が過ぎれば、すぐに見慣れた光景に出くわしている。特に驚く事でもなかった。何故ならば、そこにあるのは見慣れた扉。色が剥がれかかった粗末な鉄扉。位置場が住まう事務所の扉。
 彼はドアを乱暴に押し開くと、靴を脱ぐ事さえももどかしく、結局は脱ぐ事も無く玄関を登っていた。
 位置場渡。彼は、『位置』を、『場』を、『渡』る男。その能力は、一般にはテレポーテーションと呼ばれている。勿論、それを行使出来るような人物は、一般には存在しないのだが……。


「どうだ?治りそうか?」
「馬鹿かお前は?例え無理でも治してやるよ。それが俺の出来る事であり、しなけりゃいけねェ事なんだろう?」
 形命は、北村の手首の傷を見て、厳つい顔を難しげに歪めた。それから、その生々しい傷口ごと、大きな掌で包み込んだ。華奢な作りのその手首は、形命の掌でなら、同時に三本くらい掴めてしまいそうな程に細い。
「畜生……。こんな事なら、学校に行く事なんて、無理矢理にでも引き止めておけば良かった……」
 口汚く舌打ちする。膝枕で寝かせて、濡れている北村の髪の毛を優しく撫でる。そうしてやる事で、少しでも暖かくしてやろうと。
 北村の通う学校は、県下でも有名な進学校。教育姿勢も厳しく、無断欠席をしようものなら即日保護者に通達が届く。北村の養い親はそんな時、北村を厳しく叱責すると言う。理由は、「そんな子が義理とは言え家の子だなんて、世間様に見せる顔が無い!!」と、到って利己的。勝手なものだ。
 学校にしても養い親にしても、それだけ躾に厳しいのなら、どうして苛めには寛容になれるのだろうか?
 位置場達三人は異口同音にそんな事をこぼしながらも、北村を送り出した。北村も、それには苦笑で「さァ?」と返す事しか出来なかった。
 それを、今は後悔する。
 後悔しても後悔しきれず、位置場は願いながら北村の髪を撫で続けた。それだけが――形命ではないが――彼に出来るたった一つの事だったから。それが役に立つかどうかは、解からない。
 位置場は北村の髪の毛を櫛梳ってやりながら。形命は若木のように細い手首を押さえてやりながら。刹那の時間が十分にも二十分にも思える時間を待った。
「……寒い……」
「楽志?気が付いたのか?!」
 薄く見開かれる目蓋は、何処に焦点が合っているのかハッキリとしない。ほんの少しだけ上下に揺れる北村の唇から、弱々しい、虫の声とも言える呟きが洩れる。
 心配げに掛けられた位置場の声は、しかし北村には届いていなかった。
「……呼ばないで……」
 位置場はてっきり、「楽志」と呼ばないでくれ。そう言っているかと思った。慌てて謝ろうとする位置場だったが、それよりも早く洩れる続きの言葉にその謝罪を飲み込む。
「私の名前は『楽志』……。そうでしょう?お父さん……お母さん……」
「……楽志……?」
「『アンちゃん』なんかじゃ……無……い……」
 焦点は、先程と変わらず合っていない様子だった。しかし瞳には、溢れんばかりの波だが浮かんでいた。同時に笑顔を称える頬を濡らして、涙は流れ落ちた。
 狂喜……。そうとしか取れない恍惚としながらも無機質な笑顔に、位置場は奥歯をギリ……と鳴らす。
 強く、強く。
 暗い感情を噛み潰すように。
 暗い感情を噛み締めるように。
 また一つ、ポツリと呟く。
「『楽志』なんかじゃ無い……。どうして……?お父さん……お母さん……」
 仰ぐようにして右手を天に差し伸ばす。形命が手を離せば、左手もそうしていただろう。あたかも、何かがそこにいるように。
 胸が、痛んだ。
「楽志って呼んでよ……」
 大嫌いな名前で呼ばれる事を望んだ。
「楽志って呼ばないでよ……」
 大好きな名前で呼ばれる事を拒んだ。
 水と油に形容されるように相反する願いが、彼女の繊細な心の上に重くのし掛かっている。
「……位置場……。治療……終わったぜ……」
 形命が手を離すと、手首には無骨な赤い手形がベッタリと残っている。しかし、その血糊を流していた傷口は、どこに行ったか綺麗に消えていた。
 北村を抱きかかえ、差し伸ばされたままの腕を己の首に回してから、位置場は立ち上がる。
「今は……ここを出よう……」
 泣く子をなだめるように、位置場は北村の頭を何度も何度も撫でてやった優しく、優しく。
 教師に見付からないように、廊下をコツリ、コツリと歩いて行く。今見付かってしまえば……押し殺しているはずの感情にかまけて、殴り飛ばしてしまいそうだったから……。


「『安楽死』。それにちなんで『アンちゃん』よ。どう、面白いでしょ?」
 息が詰まるような怒りだった。理性が吹き飛びそうな憤りだった。
 笑顔で語る彼女達を、今まで感じていた怒りとは違う、殺意に満ちた怒りで睨み付けていた。
――『アンラクシ』
――ソレニチナンデ『アンチャン』ヨ
――オモシロイデショ?
 頭の中を、琴芽の言葉がグルグル回る。
(……狂って……るのか……?)
 何が面白いのか、尚も笑い続ける三人を見て、思った。それとも、こっちが狂っているのだろうか?――違う、だろう。自信を持って言える。
 人を傷付けて、それでも尚気が付かない。
 人が傷付いて、それでも尚気付いてない。
――ウチノクラスデイジメナンテアッタッケ?
 彼女達は、嘘をついていたわけではない。飽く迄もそれは日常の一部。
 そう、苛めでは無い。遊んでいただけ。
 しかし、遊びではない。苛めていただけ。
 思い遣る心と、助けてやる心。それが麻痺した人間が持つ、残酷な日常。狂気のお遊び。
「……おい……」
 最後に残った僅かな理性が、どうにか怒りを押し殺す。呼気を整え、位置場は言葉を続ける。
「お前達は、言葉の、意味を、考えた、事が、あるのか?」
「名前?」
 一語一句を区切り区切り。唐突過ぎる質問に、一瞬琴芽の声が裏返る。かなり頓狂な声になっていた。
「人間って言う種族全体を構成する個体を識別する為のコード・ナンバーみたいな物じゃないの?」
 違う!だが、その位置場の心の叫びも声に出さなければ彼女達には聞こえない。もしも今この声が聞こえたのなら、北村の心の悲鳴も聞き逃さなかったはずだ。
「名前は、親から子に贈られる、初めての願い。健やかに育って欲しいと言う願いがあるなら『健』の一文字を。幸せに育って欲しいと言う願いがあるなら『幸』の一文字を。……一文字一文字に願いを込めて、希望を託して贈られる、一生で最初の贈り物なんだ……」
 位置場の言葉に、悲しいかな彼女達は感銘を受ける事は無かった。ただ、それは一つの笑い話にしか過ぎなかった。
 一瞬の間を置き、三人は同時に爆笑の渦に包まれる。
「何言ってんのよ、突然!」
「それ、面白過ぎィ!」
「いきなり真面目な顔して、それは無いんじゃないのォ?!ああ、お腹がァァ……」
 彼女達は、たっぷり三十秒は笑い続けた。それ程のツボを押さえた所が……あったようには思えない。
「ああぁぁぁぁ……。今日は良い日ね」
「本当、本当」
 笑いよる腹痛に涙を流しながら、三人はまだまだ間抜けた笑いを押さえ切れずに言う。
「もう、アンちゃんのおかげで、今日は二回も笑わせてもらえたよォ」
 ドクン……と、悪寒を伴って不安が襲った。千恵満の何気ない一言が、位置場の胸に騒ぎを起こす。
「本当、アンちゃんの関係って、ツボを押さえた人達、多いわァ」
「お前達……」
 不安が、予感に変わる。根拠は無い。ただ、常人よりも無駄に優れた第六感が騒ぎ立てているだけ。何が起こっているかと言う予想も無い、ただの予感。せめて外れていて欲しいと、切にそう願う。
「ん?」
 怪訝げな表情で、浮美江が首を傾げていた。
「楽志に……お前等は何をしたんだ?」
「アンちゃんに?」
「何をした……て、言われても言われても……」
「ねェ?ただ、彼女の望みを叶えてあげただけだよ?」
「そうそう。鳥に成りたいってさ。ノートに書いてあったの、昨日見たから」
 予感が、確信に変わる。疑う余地も無く、哀しいまでの現実を予測する、恐ろしいまでの確信に。
「窓から飛ばしてあげたのよねェ?」
「そうそう。帰り際に二階からポイッと。あ、勿論下には乗馬部の飼い葉がある事を確認してからよ?私達の目的はさ、アンちゃんを殺す事じゃなくって、望み通りにしてあげる事だから。流石にそれくらいの事は確認しておかなくっちゃ」
「いくらアンちゃんのアンが安楽死のアンだからって、本当に殺しちゃ可哀想だモンね」
 今日だけでも何度目になるのか。彼女達は互いに顔を見合わせると、計ったようなタイミングで「ね〜〜」と声を重ねた。
 やはり、彼女達には自覚が無い。どこを考えたら、二階の窓から放り投げられて喜ぶ少女がいると思える?どこをどう捕えたら、二階から少女を放り投げる事が親切になる?
 彼女達に欠落しているのは、常識だけではなかった。他人を思い遣る心だけでもなかった。本質的な所で心に呵責を与える、誰もが持つ良心だ。
「それで、楽志が、喜ぶとでも、思っているのか?」
 いつでも、殴り飛ばせる状況だ。拳を固め、唇を噛む。返答次第では、彼女達の性別などに躊躇無く、顔面でも脳天でも鳩尾でも、どこでも殴ってやれる。
「当たり前ジャン。実際彼女、笑ってたし」
 しかし浮美江の返答に、位置場の拳は振るわれる事がなかった。それよりも先に、愕然となれるだけの事実を突き付けられたから。
「そうそう。嬉しそうに笑ってたわよね。涙流しながら」
「うん。久し振りに良い事した気分になれた。あんなに喜んでるアンちゃん見たのって、初めてじゃないかな?」
 ガタン!!ガタ、タタタタタ……
 激しい音が、喫茶店の中で無遠慮に響いた。あまりに突拍子も無く席を立った位置場が、椅子を弾き飛ばした音。それが転がって行く音。
 呆然とする三人を尻目に、位置場は一目散に走り去った。店の奥に仕付けられたトイレ目指して。
「「「…………」」」
 その後を目で追いながら、彼女達は目を丸くしていた。
「……トイレ……我慢してたの……?」
「そう言えば、さっきからヤケに震えてたっけ」
「目もかなりマジ逝っちゃってたしね」
「一言言えば良かったのにね」
「ひょっとして、三人の美人を前にして言い出せなかったんじゃないの?」
「「かもしんないねェ」」
 暢気なお喋りに花が咲き始める。この後の、自分達の境遇に気付きもしない。
 領収書に記される値段は、食って飲んでで一万飛んで三十六円(税込み)。位置場が店のトイレから出てくる事は無い。この時には既に、彼は楽志がいるかもしれない学校の裏手に渡っていたから。


to be continued...

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