天秤 ―Is more Fright? or Love?―
5th chapter

(化け物!)
 恐かった。化け物になった自分が、恐ろしく恐かった。
(化け物!)
 恐かった。母の口から搾り出されたその一言が、酷く恐かった。
(化け物!)
 恐かった。神様からの贈り物が、それを誉めてもらおうと思った物が、心の正常を蝕む程に恐かった。
 どこをどう走ったか解からない。ただ我武者羅に足を動かして、必死に逃げ出していた。何からでもいいから、逃げ出したかった。何処まででもいいから、逃げ出したくて。
 バシャンと音を立てて転んだ。水溜りが水を跳ね上げて、飛沫を飛ばした。拍子に膝を擦り剥いた。流れる血を雨水が洗い流し、代わりに中に染み込み痛みに苛んだ。
「ママ……ママ……」
 自分を「化け物」と呼んだ母を、ティプラは今も求めていた。
 雨水に服が汚れ、体温を奪って逝った。
 このままでも良いや……。ティプラは思った。自分自身が恐くてたまらず、ママには化け物と言われて嫌われて……。昨日までの幸せが嘘のように崩れて壊れてしまった。こんな今なら、無くなった方が良かった。こんな贈り物なら、贈られない方が良かった。
 悲しみに暮れ、ティプラは、もう一度泣いた。慣れ親しんだ町の見知らぬ何処かで。このまま死んでしまうんだなどと、悲観に暮れて、思い切り泣き出した。
「ティプラ!!」
 自分を呼ぶ声がした。涙で赤く腫れた眼をそのまま向けると、激しい雨足の中で、人影が立っていた。
 見慣れたその人影は、父であった。打たれ、蹴られた痕が痛いらしく、苦痛に顔を歪め、それでも必死に笑顔を見せて近付いた。
「パパ……」
 グシャグシャに濡れた顔で、辛うじて紡いだ言葉も、雨の音で上手く聞き取れない。
「ティプラ……こっちにおいで……」
 カトスが、手を差し伸べた。その手に縋ろうとした瞬間、血肉が飛び散る映像が、フラッシュバックして、また縮こまった。
 恐かった。大好きなパパが、あの男のように無くなってしまうのが。
「ティプラ……?」
「来ないで!!」
 ティプラは、声の限りに叫んだ。
「ティプラ?」
 カトスは、もう一度愛娘の名を呼んだ。
「恐いんだモン!!わたし、物凄く恐いんだモン!!」
 必死に叫んだ。何が恐いのか……?沢山恐くて、それが出てこなかった。
「ティプラ……」
 再三に渡り、その名を呼んだ後、
「そっちに行くよ……?」
「来ないでったら!!」
 バァン!!と鳴った。カトスの背中で。何かが、砕け散った音。それが何なのかは、確認していないからわからなかった。
「何で……行ったら駄目なんだい……?」
 カトスが、優しく諭すようにして言った。
「恐いんだモン!!」
 もう一度、そう言った。端的すぎて、非常に解かり難い回答だ。だが、その後で、漸く整理のついた言葉が出てきた。一体、自分が何を一番に恐がっているのか。
「わたしが恐いんだモン!!オバケみたいな悪者になっちゃうわたしが恐いんだモン!!ママを恐がらせちゃうわたしが恐いんだモン!!パパを恐がらせちゃうわたしが恐いんだモン!!!!!!」
「馬鹿野郎!!」
 泣き叫ぶティプラの声よりも更に大きな声で、カトスがそう罵倒した。
 思いもかけない父の言葉に、「ヒッ!」と小さく悲鳴を上げて、ティプラは更に縮こまった。
「オマエは、パパを何だと思っているんだ?!」
 カトスは、そこに立ち止まったまま、震える声でそう言った。
「だって……パパだって、恐がっているんでしょ?今、物凄く恐いんでしょ?だって、震えてるもん……」
「だから、馬鹿野郎だって言ったんだ!」
 カトスの機微を敏感に感じ取ったティプラに、カトスはもう一度「馬鹿」と言った。
「パパが、ティプラを恐がっているだって?……ああ、勿論恐いさ。突然、魔王みたいな恐ろしい力を使ったんだ。恐くないわけがない。物凄く恐かったさ」
 カトスは、自分の気持ちを正直に伝えた。いつ如何なる時でも嘘をつかない。自分の信念を曲げない、融通の利かない頑固な父の言葉に、ティプラが更に大きな声で泣き出そうとした時。
「でもな!!」
 一言、逆説の言葉だけを力強く、誰にも負けない程に力強く叫び出した。
「それ以上に、ティプラの事を愛している。恐くたって、そんな事は関係無いって言えるくらいに、ティプラの事を愛している。ティプラがティプラを恐くたって、パパはオマエを愛している!!」
 これも……カトスの真実の言葉。嘘をつかずに実直に、ただ自分の思っている事だけを口にする、不器用な父の言葉に……やっぱり、ティプラは涙を流していた。
「……本当……?」
「ああ。本当だ。ティプラは、パパを何だと思っているんだい?」
 解からず、ティプラは静かに見詰め返した。
 ソッと、もう一度手を差し伸べて、カトスは見掛けに似合わぬ優しさに満ちた笑顔でこう言った。
「ティプラの、パパじゃないか」
 ティプラは、泣きながら父の手に縋った。
 雨に打たれて冷たくなった父の無骨な掌が、温かく、柔らかかった。抱き締めてくれた父の抱擁は、ギフトなんかよりもずっと嬉しかった。
 一通り泣き通して、落ち着きを取り戻してから、ティプラはこう問うた。
「パパは……ティプラの事が恐くっても、ティプラの事を愛してくれているのよね?」
「当たり前だろ」
 欠片の照れも無く、自信に満ちた一言で返した。
「じゃァ……ママは、わたしの事を、嫌いになったの?」
 そう思うと……悲しくなって、また泣き出しそうだった。
 カトスは、ティプラを抱擁から解放して自分の足で立たせると、その瞳を真っ直ぐに見詰めて言った。
「そんなわけ無いだろう?」
 カトスの真摯な瞳に、一点の曇りも無い。
「ママは、パパ以上にティプラの事を愛しているさ」
「じゃぁ、どうして……」
 泣き出そうとする子供の顔は、全国共通だろう。イヤイヤするように首を振ると、ティプラはそんな表情を見せていた。
「ママはね、ティプラの事を愛している。パパもティプラの事を愛しているけど、きっと、その深さはパパ以上さ」
 カトスはもう一度、そうやって念を押した。
「でもね、ママはパパよりも、臆病だったんだ。大好きだったけど、恐さに負けちゃった。……突然の事で、整理がついていなかっただけ。きっと今頃……後悔してるよ。『ティプラに酷い事を言っちゃった』って。『ティプラに謝りたい』って」
 ティプラの瞳を覗き込むと、その瞳の奥に、喜びに似た、でも何処か、後悔にも似た光が灯っていた。
「……本当なの……?」
「当たり前だろ。ティプラは、ママを何だと思っているんだい?」
 瞳を覗き込んだまま、カトスは沈黙を守った。ティプラが、こう言うまで。
「……ママは……ティプラのママなのよね……?」
「正解だ」
 ニカッと笑い、娘の濡れた髪をグシャグシャと混ぜっ返した。
 答えた後、瞳の奥に灯った光に、後悔の色が濃くなった。
「……パパ……」
「何だい?」
「……ママの所に連れて行って……。ママに……謝りたいの……。恐がらせちゃって、御免なさいって…」
「御安い御用さ!」
 言うが早いか、カトスはティプラを肩に担ぎ上げ、ラファの元へと急いで向かった。打ち身が痛いなどと泣き言は、言っている暇も無い。

to be continued...

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