第十三章 その宴、積もる怒りの晴れ舞台...

(何者だ……あの男……?)
 全身と、全神経と、そして魂までが感じ取る悪寒に支配され、火端は思った。その悪寒が恐怖と呼ばれる感情である事は、容易に想像が出来る。初めて《大雷邪巳》を目の当たりにした時に感じたあの悪寒と、非常に似た感覚だったから。ただ、違いがあるとすればその質だ。
 《大雷邪巳》は、恐怖の中にあって、圧倒的な暗黒面から手を差し伸べる甘美な誘惑があった。恐ろしいはずの"死"が手招く、強い負の快楽があった。エデンの園で蛇の誘惑に負けたイヴの気持ちがその時初めて解かったような気がして――。火端は『蛇の輪廻』の洗礼を進み受け、今に至っている。
 しかし、目の前でその剣呑さを隠そうともしない男――尾羽張萩利が持つ『聖剣』は、火端が今まで培ってきた暗黒の悦楽をその姿だけで両断し、あらゆる意志を裂帛の威光だけで霧散させた。
 惹き付ける暗黒の恐怖と、突き放す光の恐怖。対極にあるその恐怖の中で、火端は絶望さえ感じている。
 一方、三津草サイドでは……。
「尾羽張君……?」
 訝むようにして、八尺瓊が呟いていた。確か、彼は伊真君と一緒に詰所にいたはずでは……?と言うのが、訝みの理由の一つ。もう一つは、名前は合っていましたっけ?と言う、単純な事。
 佐土布都が、警戒の意を引き締める。油断無く尾羽張を注視したまま、大地に刺しておいた《建御雷神》に手を伸ばしていた。
 前触れなく現れた見知らぬ男。佐土布都の姿は全く視界には治めず、気配は完璧に無視して。それでも殺気の余波だけで、凍てつく程に身を震わせる。
 佐土布都が尾羽張を敵として警戒するには、充分以上のファクターであった。
 敵愾心を剥き出す佐土布都は、仔を守るために牙を向ける猫のようだなと。海泥麒は思った。それと同時に、虎には勝てないとも思っていた。
 猫が虎に噛み付かないようにする為、掌で佐土布都の視界を塞ぎ、割って入る。
 佐土布都は、肌艶が珠の如く美しい掌に、剥き出した敵意が反らされた。恨みがましく海泥麒を睨め上げる。
「手負いの獣じゃあるまいし、そんなにも噛み付かない。安心なさいよ。少なくても敵じゃないわ」
「……根拠は?」
 軽い抗議を乗せた佐土布都の問いに、海泥麒は背負う闇を無言で指差す。見ろ、と言っているのだ。
 ツイと見やると、カラカラと間抜けた音を出す自転車――電気も何も使われていない、完全人力だ――を手押す女が、一人現れた。疲労困憊と言った体で呼気を乱すのは、伊真沙梛だ。
「疲れ……ました……」
 詰所から十五分強の道のりを、絶えず全力で疾走した。特に鍛えたわけではない人間がそれを実行すれば、普通まともな呼吸など出来たものではない。むしろ、それだけの時間を走り切った事を褒めてやるべきだ。
 一方で。尾羽張は自前の足で、伊真の全力に終始付き従っていた。逆に、伊真に「遅い」と急かすようにして。さらに言えば、出血による潜在疲労も残っており、それも枷にもなっているはずなのに。彼は汗の一つも流さず、整った呼気で立っていた。
 『剣聖』の身体能力が人外であるとは言え、不公平だなァ……と、伊真は少しだけ思っていた。
「……伊真さん?どうしてここに……?」
さなちゃんが一緒って事は、少なくても敵じゃない。Q.E.D. O.K?」
 溢れる自信で断言するが、
「あの博愛主義者に敵味方の区別がつくわけないでしょ」
 の八咫の言葉で、溢れる自信もかさ増しの挙句に引っ繰り返る。言い過ぎ感は否めないが、あながち的外れでもなかったりする。
 深呼吸で呼気を整えて人心地つかせた伊真は、その時漸く噎せ返るような死臭に気が付いた。
 フと目を向けると、そこには常軌を逸した惨状が広がる。内から掘り返された墓土。無残に砕け散る人の骨。子供の悪戯にしては度が過ぎる、倒壊した墓石。カラカラと、どこか子供の玩具じみた動きで現実味を失わせる骨、骨、骨。
 お化け屋敷さながらの情景に、小さく悲鳴を上げて目を背けた。しかし、背けた先にあるより深刻な叢雲の惨状を認めると、その恐怖も疲労もかなぐり捨てて彼女のもとへと慌てて駆け寄る。
 尾羽張は、彼女達の存在もやり取りも全くに無視して、一人緩りと歩を進める。あまりに無防備に。だが、剣呑に。
 肩に担いだ《天尾羽張》が月光を受けて輝きを返す。それもまた、剣呑な輝きであった。
「ヌシ……何者だ……?」
 次から次へと……。苛立ちで、凍てつくような視線と輝く白光のプレッシャーを紛らわし、大噛は訊いた。
 だが、尾羽張はまた一歩、足を踏み出した。聞く耳など持たない。どのような言葉であろうと、全ては如何でも良い事だと思っていたから。
 その尾羽張が……不意に足を止めていた。耳に届いた、たった一言で。
 それは、大噛の「答えねェか!!」の威圧の一言ではなかった。
 行き過ぎた背中から届く、一言。
「佐土布都さん」
 伊真の一言。後に続いていた「叢雲さんの容態は?」には、全く頓着していない。そのクセ、年下の少年を呼ぶ一言が、尾羽張の歩みを縛り止めた。
「佐土布都……だと……?」
 思いも寄らない方向から名前を呼ばれ、つい反射的に目を向けて……そのまま硬直した。見なければ良かったと、先に立たない後悔をした。
 視線を、絡め取られた。余波だけでも凍てつく程に冷たい殺気を孕んだ、尾羽張の視線で。先刻までは破裂するかと思うほどに恐怖で動悸していた心臓も、今は恐怖と言う名の悪魔の腕で鷲掴みにされたように、静かに脈打っていた。
 佐土布都は知った。真の恐怖は、人の魂を容易に脆い水晶に代えてしまうと言う事を。
「貴様か……」
 アーサー王のExcaliburよろしく大地に突き立つ《建御雷神》を視界に治めて、尾羽張は呟いた。
「貴様が……貴様らが……。貴様らの不甲斐なさが……」
 姉さんを宿命に縛り付けた。そして――姉さんは、宿命なんかに殺される羽目になったんだ……!!
 怒りをぶつけた所で、磨夜は帰らない……。そして、目の前の佐土布都には罪は無い……。
 少し考えれば辿り着く結論を理性が嗅ぎ付けた時、誰でも良いから殴り飛ばしたいと言う本能は、どうにか抑えられた。
 やり場の無い怒りに、固く握った拳が痙攣するほどに震えていた。
 尾羽張は結局、怒りを殺気に上乗せする事で佐土布都から視線を外した。
 ドウと流れる冷たい汗で、漸く恐怖の網から逃れたと知る。蛇に睨まれた蛙の心境が、痛い程――それは、文字通りに――よく解かった。
 「蛇」に喩えると、きっと尾羽張は問答無用で殴っていただろう。幸いにも、その気持ちは口には出ていなかったが。代わりに、
「誰が……敵じゃないって……?」
 非難がましい言葉は、冷たさに震えていた。
(先に噛み付くべき相手がいるから、こっちに牙を向けないだけじゃないか?)
 溢れ流れる冷たい汗を拭う佐土布都の表情に、先刻よりも険しい緊張感が漂っていた。まぁ、それも無理からぬ事であろう。
 しかし、尾羽張はその佐土布都を既に如何でも良い事だと切って捨てていた。彼は、声を張り上げる大噛に無言で向き直っていた。
「わからねェのか?!ヌシらの戦力では、儂らには勝てん!儂ら八つ首の『聖剣』こそが最強の『聖剣』!!」
「違うさ」
 深く沈んだ一枚の言の葉が、深い闇にシン……と響いた。
 声量では圧倒されるはずの一言が大噛の怒声を遮ったのは、言葉が宿す剣呑さの故。
「《天叢雲剣》が《大雷邪巳》に刃向かえなかったのは、単に相性の問題」
 尾羽張が、《天尾羽張》を魂に納めて淡々と語り始めた。大噛と火端を捕えていたプレッシャーが、フと言う間も無く消え去った。
「遥か古へ。歴史ではなく、神話の名で時代が綴られる頃。八つ首にあらゆる災禍を孕んだ一匹の大蛇がいた。名は……八岐大蛇。知らぬはずはあるまい……?貴様らが邪巳と崇める、醜い爬虫類の事だ」
「儂らの邪巳を……愚弄するか……?」
「《大雷邪巳》は、八つ首が一首。司るは"死"。他の七首が命を奪うに対し、貴様のそれは死を与える」
 大噛の言葉を、全く聞いてはいない。やはり淡々と、知るべき事実を喋るだけ。
「……それと、《草薙剣》の相性が、どう関係すると?」
 無視された事にさらに苛立ちを積もらせながらも、大噛は気になる事だけは問い質そうとする。
「《天叢雲剣》。貴様達の間では《草薙剣》の名で呼ばれているらしいが。それが一体どこから生まれたか。知らぬわけではあるまい?」
 当然だ。『蛇の輪廻』の信者として、奉り上げる邪巳の生い立ちを知らぬわけにはいくまい。
 伝承に、かくあり。
 始まりは、建速素盞鳴尊が出生の地である出雲のの川に辿り着いた時。
 彼はそこで、老翁と老婆の老夫婦が悲しみに暮れるのを見た。理由を問えば、毎年巨大な大蛇が現れては、夫婦の娘達を喰ろうていくらしい。既に八人いた娘達の内の七人は贄として呑まれてしまっていた。そして、今年は最期に残った八番目の娘の番だと……。
 事情を聞いた素盞鳴は、娘を嫁に貰う事を条件に、大蛇の退治を引き受ける。老夫婦には八つの酒杯を用意させ、娘を櫛へと代えて守りて大蛇を待つ。
 現れたのは、一つの胴に八つ首と一本の尾を持つ大蛇――『蛇の輪廻』にて邪巳と崇め奉られる、八岐大蛇。その体は八つの谷と八つの山を跨ぐ巨体で、背中には苔や檜や杉などの樹木が生い茂る。腹は滲み出る血で真っ赤に染まり、尾から流れる暗雲が周囲に闇を落としていた。二つ八組、計十六の瞳は、鬼灯のように赤く――赫く輝いていたと言う。
 素盞鳴はその八つ首がこぞって杯を平らげ眠りに就くのを見計らい、剣でその八つ首を全て斬り捨てた。そして最期にその尾を断ち切ろうとした時、持っていた剣が欠けてしまう。
 何かと訝りその中を見ると、そこには群雲を纏う一振りの刀があった。それが即ち、天叢雲剣。
 委細については、文字が世に出るまでに長らくの時間が経ってしまっていた為、伝えられる中で意匠化されているであろう。しかし、この中に最低でも一つの事実が含まれている事を、尾羽張の血筋は知っている。それは、
――《天叢雲剣》と、《大雷邪巳》を含む八つ首の『聖剣』は、元は一つの存在であった
 と言う事。
 『聖剣』同士のぶつかり合いは、単純なエネルギーの衝突ではない。科学で証明する事は不可能な、因縁の繋がり。10の力に負ける1の力も、因縁次第では100の力を制する事もある。獰猛さと破壊能力において比肩する者の無い終末の魔獣《Fenrrir》も、それ自体に何の力も無い脆く柔らかい絹紐の『聖剣』《Gleipnir》を前にした時、赤子よりも大人しく、その束縛を受け入れるしかなかった。神話に塗り込められた因縁に、結局は抗えなかったのだ。
 同じ事が、《天叢雲剣》と《大雷邪巳》の間でも働いている、と言う事だ。
「毒蛇は自毒で自殺は出来ず――。つまりは、そう言う事さ」
 互いに互いを傷付け合う事は能わず――。そう、尾羽張は言いたいのだ。
 尾羽張にしては珍しく饒舌であった。
 彼は喋り疲れたのか、一つ溜め息をついた。
「……ならば、尚の事、ヌシらに何が出来る?」
 非常な端的な尾羽張の説明に、それでも合点をいかせた。大噛は、さらに言い募る。
「ヌシの言葉通りならば、確かに《草薙剣》はナマクラではないだろう。だからと言って、それがどうなる?ヌシらの頼みの綱である奇稲田に、最終的な戦力外通知がなされただけではないのか?今この状況を乗り切り街を守るには、奇稲田を差し出す以外には、あるまい!!」
 捲くし立てた最期の一言は、怒号となった。
 ビリビリと夜の大気と人の魂を震わせる雄叫びの中で、叢雲は呟いていた。
「フザ……けるな……!!」
 低く。そして、か細く。言葉を成す事さえも精一杯な苦痛の中で。彼女の呟きは、大噛どころか、尾羽張にさえ届かない。恐らく聞き取れたのは、佐土布都と八尺瓊くらいのものだ。
 その言葉は、決めた心に力を与える為だったのだろう。叢雲は、胸の内で、決めた心を言葉に成していた。
(生贄になんざ……なってたまるか……!)
 彼女は、持っている。一つの信念、一つの責務を。
 自身で貫く信念は、街を愛し続ける事。だが、それは命に代えて庇う事ではない。
 親から継いだ責務は、街を守り抜く事。だが、それは命を捨てて救う事ではない。
 彼女があえて命を賭けるのなら、それは命を張って全てを勝ち取る事。
 街の中に生き、民と共に暮らす。自身で貫く信念も親から継いだ責務も、全ては結局、彼女自身のその欲望に根幹を成していた。その身勝手の故にこそ、命を張って戦えるのだ。
 信念を心に刻み直し、責務で体を鞭打って。彼女は残った力を四肢に広げた。
「貴様を退治してやりゃ……全ては丸く治まるんだよ……」
 腕に力を込める。佐土布都の膝に預けていた頭を持ち上げる。上体を地面から引き剥がすようにして身を起こす。―誓約―で抑えられているとは言え体中を苛む苦痛も、意地で固めた意志で振り払う。
「叢雲さん……!!」
 伊真が、叢雲の意志を見咎めて、制止の意図で手を差し伸べる。彼女自身には、何も出来ない。だが、八咫や八尺瓊や、海泥麒や佐土布都だっているのだ。こう言う時くらい、守るべき民を当てにしたって、罰は当たらないのではないか?
 口にこそ出さなかったが、そう思った。致命傷に近しい傷を負った叢雲を、心から心配していた。だから伊真は叢雲の体を、その意志ごと抑えるようにして、押さえ付けた。
 瞬間、叢雲の全身を突き抜ける激痛。腐蛇の牙痕から不意に襲ったその激痛に、叢雲は顔を歪める。
 絞り出した気力は討ち払われ、形を成した意志は霧散された。腕から力が抜け落ち、頭をもう一度、不甲斐ない年下の少年の膝に預けてしまう。
「ほら……。叢雲さん、やりたい事は解かりますけど、傷に障ります。あまり無理をなさらないで下さい」
 そう言った伊真は、叢雲の体を慮って心配げだった。
「あの……。伊真君?言いたい事は解かりますけど、傷に触ってますよ?あまり無茶はしないで下さい」
 そう言った八尺瓊は、叢雲の殺気に反応して心配げだった。
 叢雲を押さえる伊真の掌は、刻まれた牙痕に容赦無く触れていた。そりゃ激痛も走る。
 漫才じみたやり取りも、やはり尾羽張には如何でも良いようだ。そこだけが全く別の空間だとでも言いたげに、一つ、溜め息を吐いていた。
 大きく、深く。投げやりに、だが陰鬱に。吐息は闇に融け消え失せるが、溜め息その物は闇を衣に紛れて潜む。
 そして一言、言葉を吐き出していた。疲れた口調で、慣れた一言を。
「如何でも……良い事だ……」
「何……?」
 思いがけぬ尾羽張の台詞。大噛の言葉は、訝しみとして返ってくる。
「如何でも良い事なんだよ。貴様らが叢雲を欲しようと。街に屍の山を築こうと。例え全ての命を滅ぼそうと。俺にとってそんな事は、全て如何でも良い事なんだよ」
「……ならば、何故儂らの前に立ち塞ぐ?」
 街を守る為――。民を守る為――。吐き気がするような理由を掲げる連中ばかりが揃い踏むだけの自警団かと思いきや、どうやら変わり種もいるようだ。
 そんな事を思い、その理由を訊ね聞いたが。実は、尾羽張は自警団員ではない。それは当然、大噛の知る所ではないが。
「言わなかったか……?貴様ではなく、貴様らに恨みが積もるからだ」
 大噛が質す素朴な疑問に、尾羽張は答えた。フツフツと蘇る、七年前の哀怒を吐き出すように。
「貴様らは……貴様らの一首《火雷邪巳》は、俺の姉さんを奪った。貴様らの身内の所業の罪は、貴様ら全員の万死で償っても足りる所ではない」
「死した人間如きの為に、自分の命を賭ける――と言うのか?」
 尾羽張は、月光の下、笑みを浮かべる事でその問いに返した。
 その笑みは確かに、信念を貫く為にと達観した笑みにも見えたかもしれない。だから大噛は、「愚かな……!!」と、酷評した。
 しかし、違うのだ。その笑みは達観と呼べるような代物ではない。冷ややかで、満たされる物は虚無感だけ。諦観を極めた冷笑――と呼ぶにも、寂しく、凍てつき、激しい笑み。
 尾羽張にすれば、命を賭けるつもりなど無かった。彼の命が、賭けるに値する命ではないと自覚していたから。無い袖は振れない。賭博場では最も困るタイプの客だろう。
 彼のする事は、ただ、斬り伏せる事。冷めた命が枯れようと、無駄に命が長らえようと。心臓が一度でも鼓動する限り、恨み積もる蛇どもを斬り捨てるのみ。
「だが、安心しろ。万死であろうと足りない罪ではあるが、人は万も死ぬ事は出来ない」
 笑みから――虚無感が消えた。代わりに笑みに宿る感情は、喜び。今から始まる宴の名を知っているから。彼は、永き時の中でそれを心待ちにしていた。
「死ぬのは、一度だけだ。圧倒的な恐怖を、貴様らの魂に刻み込んでやる……!!」
 喜びの名は狂喜、宴の名は復讐と言った。
 凄絶な笑みが、『蛇の輪廻』の面々と、三津草の街の面々の身を竦ませた。

to be continued...

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