第十四章 その中で、択ぶは生かまたは死か...
「尾羽張さん」
彼の踏み出す一歩を確かめてから。伊真は言葉を投げ掛けた。
次の言葉を絞る前に、彼が振り向くのを待ちはしない。待てば、振り向きもせずに次の一歩を踏み出す事を知っていたから。
「止めても無駄とは解かっています。だから今更、止めたりはしません」
尾羽張は、伊真の言葉の終わりを待ちはしなかった。ブーツの底から伝わる感触が、すぐに新しい感触に代わるのが解かった。
伊真も、それを咎める様子は無い。ただ、自分の言いたい事を、伝えたい事を。自分のペースで口にしていくだけ。
「ですけど、命を投げ出したりは――自分から命を投げ出すような真似だけは、絶対にしないで下さい」
そこで――尾羽張の歩みがハタと止まる。止まった原因は解かっている。だが、止まった理由が解からない。
伊真はその事実に気付かず、更に言葉を綴っていく。
「自分の意志を持って生き続ける事。足掻いて、蜿いて、例え惨めに思えても、命を必死に抱き続ける意志を持つ事。それが――人の持つ、最大の『意志』なのです」
何処かで……聞いた気がする。いつだったか……聞かされた気がする。
思い出そうとしても思い出せない。だが、忘れたくても忘れられない。そんな、奇妙で朧気で曖昧な記憶。
すぐ手元に確かにあるのに、煙のように掴み取れないその記憶は、結局いつもの結論を弾き出す為の途中計算の式でしかなかった。そう、「如何でも良い事だ」と言う、模範解答への。
彼は、しかし答えていた。虚しさだけに満たされると言う矛盾の心を無意識に選び出して。ただ、何処か馴れた口調で。
「当たり前だ」
と。その言葉の意味も、重ささえ認知せずに答えていた。
そして彼は、一歩の歩みを更にと進めた。
「佐土布都……海泥麒……。何…ボー…ッと…してんだ……。お前等も…行け……!」
一人、間合いを詰める尾羽張を黙して見送る二人に対して、幾分か気力を取り戻した叢雲が言った。
その言葉で呆けていた自分に気付き、海泥麒はバツの悪い苦笑を浮かべた。それでも早々に立ち上がると、急いで彼の後ろを追い始める。
その海泥麒の背中を目で追いながらも、佐土布都はオロオロとした挙動を見せるのみだった。
「佐土布都……!!」
佐土布都に、叢雲から二度目の叱咤が飛ぶ。叢雲の安否を気遣っていた佐土布都は何か言おうと口を開いたが、想い人の双眸に宿る憤りに負け、不安げな心配りを残しながら敵中へと走った。
「オレ達も…行くぞ…八尺瓊……!」
最後に、自分も参戦しようと上体を起こそうとする。が、
「ッ!?☆!」
声帯を震わせる事さえ無い悲鳴を上げて、三度に渡りその身を大地へと預けた。
「馬鹿言うのは休み休みにして下さい。今私が―繋璽―を解いたら、その激痛が続くんですよ?いくら叢雲君と言えども、発狂しますって」
微苦笑を浮かべながら、八尺瓊が言った。左手は、拳で叢雲の傷口を軽く小突いた直後であり、赤く塗れていた。
「そう言う事……。叢雲嬢ちゃんも、たまには儂らに任せてそこで静かにしてな」
ニカッと似合わない笑みを浮かべたのは、つい先刻まで疲労で息を切らせていた後藤だった。彼より先だって、市川と都筑が敵地へ向かっていた。
悔しそうな表情の奥底を、不器用な喜びで綻ばせ、叢雲は「頼んだぞ」と返した。後藤は「任せときな、嬢ちゃん」と、年輩の信頼感一杯に返した。
土割れの破砕音が響いたのは、その瞬間だった。
何事かと音源を見やれば、それは不浄の大地から伸びる一本の巨大な柱だった。
柱はズルズルとその身を引き抜くと、その頭部を露わにする。それは、その身を遥かに伸ばして佐土布都へと襲い掛かった《大雷邪巳》。朽ちた口一杯に土を頬張り、蛇眼を揺らした。
思わぬ強襲を直前で察知した佐土布都は、無様に転がった体を早々に立て直し、《建御雷神》で構えを取る。
漏電するようにして神の剣に踊る雷の子らを解放しようと振り被るが、《大雷邪巳》が無雑作に噛み砕いた土塊が視界を奪う。慌てて目蓋を下ろして土雨の洗礼を防いだ。目蓋を開けた時には、既に《大雷邪巳》の巨体は眼前から消えていた。大噛の巨体に絡み直し、不恰好なマフラーのように元の鞘に納まっている。
さらに続く響音は、複数の陶器を同時に砕いたような、低く乾いた音。すぐにそこに視野を移せば、音を奏でる演者が尾羽張だとすぐ知れよう。
骸兵との接敵の瞬間、闇を宿す両の眼窩を橋渡す一本をしっかと握ると、無雑作に投げ棄てる。後続する骸達の群れへ向かって。
多重に重なる狂騒の音。互いに互いの骨を食らい合い、三つの骸はバラバラに砕かれ、十を越える骸が将棋倒しに背中から倒れ伏す。
「You well done...」
尾羽張の豪快な戦い振りに、背中から掛かる声。赤色のポニー・テールを振り乱す海泥麒だった。
尾羽張はただ一瞥を与えてやると、それ以上は「手伝え」とも「手伝う」とも「邪魔だ」とも。何の一言も無く歩を進めた。ワラワラと揃わぬ足並みの骸兵を面倒臭そうに一睨し、右腕を左の肩口まで持ち上げながら。
互いに敵するでなく、だが敵を同じくするだけの間柄。それを自覚するからこそ、尾羽張の態度には何の感慨もなかった。海泥麒にしても利害の一致に付け込んで、戦力としてこの男と共闘を演じるだけだ。
とは言え、息も合わぬ者同士が固まっていても、足を引っ張り合うだけだろう。思い直した海泥麒は、互いに邪魔にならぬ距離を取る為に、右へ向かって大きくサイド・ステップを踏んだ。
それを確認するよりも早く、尾羽張は腕を大きく振るった。接敵まで2[m]近い距離を残す骸兵へ向かって、左から右へ。空間を一薙ぎにするように。
頭蓋が七つ、闇夜に舞った。一つ一つは緩やかに規則正しいアーチを描きながら、しかし共演と呼ぶには無分別に乱れながら。
何をしたのかは定かではない。しかし所業の主が尾羽張である事だけは容易に知れた。振るった右手は徒手空拳だが、彼の腕の軌道に沿って半径3[m]強の扇形空間が見事に薙ぎ斬られたのだ。
左の項にソッと手を添えながら、海泥麒は結果を分析した。そして同時に、僅か数[cm]ばかりの偶然に感謝した。
項に添えた手を軽く撫で走らせると、指先に軽く視線を落とした。そこには赤い細線が一条残る。髪の毛、ではない。それほど細くはなく、また鮮やかな曲線を描いてもいなかった。それは、一条の斬り傷から流れる血を押し潰した跡。尾羽張が腕を振るった瞬間、海泥麒の項に走った軽痛の箇所から流れる血の跡。
(――後数[cm]立ち位置がこの子の方に寄っていたら……飛んだ頭蓋が一つ増えてたわね……)
僅かな誤差が、明確な境界線を引いていた。生と、そして死の。
(この子、自分の存在なんて見ていない……味方とも共闘相手とも……それどころか、敵としてさえ見ていない……。下手に近付くと、巻き添えにされかねない)
ゾッとしない予感で彼女はさらに距離を取り、肉迫する骸兵と対峙した――骸兵には、迫るだけの肉は無かったが――。
そして、乱戦が始まった。
五十超の骸兵、渦巻く炎の《Muspells Heimr》、屍肉の大蛇《大雷邪巳》、非『聖剣』の井上、木地本、堤、渡邊。
対するは尾羽張、海泥麒、佐土布都の三人の『剣聖』と、後藤、市川、都筑の三人の非『剣聖』、そして後方援護の八咫の七人。
群がる骸兵を相手取り、非『聖剣』の四人の刃を掻い潜り、《Muspells Heimr》の炎と熱気に肝を冷され、《大雷邪巳》の腐れ顎から逃げ回る。
叢雲達がいなかった先刻の時よりも敵は多いが、バック・アップに八咫の―逆月―が控えている。そう思うだけで、自警団員は先刻よりも気を落ち着けて戦えた。
その乱戦を見守りながら、呟かれる一言がある。
「強い……」
八尺瓊の呟きだ。感心してと言うか、呆然としてと言うか。どちらにしても、目を奪われていた。その一瞬の間を縫って―繋璽―が弱まり、叢雲の苦悶が返った所で、我を取り戻して気を引き締めたが。
「修羅って奴?それとも羅刹?」
追随したのは、八咫の硬質の呟き。こちらは戦況を冷静に目で追い、機会に合わせて的確に―逆月―を創る。
二人の呟きの通り、尾羽張は強かった。叢雲のように精緻な戦い振りでも無く、八尺瓊のように華麗な戦い振りでも無かったが、それでもただ闇雲に強かった。敢えてその戦い振りを型に嵌めるなら、「攻撃は最大の防禦也り」と言った所か。
実際、尾羽張の戦いに防禦は無かった。避ける事も、捌く事も、仕切り直す事も無かった。何故ならば、必要が無かったから。
大地を穿つ掌骨が振り下ろされるよりも早くその腕を斬って落とし、墓石を削る顎が噛み合わされるよりも早く頭蓋を握り潰し、大木を締め拉ぐ抱擁に愛でられるよりも早く胴体を蹴り砕く。
死にたくなければ守りに移るな、逃げに手打つか敵を討て――。尾羽張の場合、選択肢が後者に当たるだけの事。
骸兵の群れを物ともせずに道を切り拓く尾羽張を見ながら、二人は同じ結論を導き出していた。しかし――
「何故……ですか……?」
深い哀切を引き絞るように吐露した言葉に刻んだのは、伊真だった。
然して呆る伊真の瞳が映す尾羽張の、しかし捉える姿は戦士の強さなどではなく、人としての弱さ。虚ろで稀薄で、今にも崩れ落ちてしまいそうな、脆い魂の姿。鬼の身に幽の中戦う様は、傀儡としての糸さえ断たれて狂う、戦に朽ち果つベルセルク。
尾羽張の右腕が狂嵐の刃撃を渦巻くと、迫り来る骸が二つに割れて倒れ伏す。
「どうしてですか……?」
呟きが深い悔恨の涙を誘い、伊真の視界を歪めてしまう。
肉を持ちえぬ多数の骸と、肉持つ単騎の幽鬼の姿が、水に落ちた絵の具のように溶けて一つに混じり合う。それは果たして、泪が下ろした薄布のようなカーテンのせいだとばかり言えるだろうか?
目蓋をきつく下ろし、涙を拭いながら、伊真は問うた。答える者はここにいない事を知りながら。
――なんで、御自分の命を粗末に扱えるのですか?――と。
――もう、約束を忘れてしまったのですか?――と。
伊真は、戦い事に関しては丸きりのアマチュアだ。尾羽張が「強い」と言う事くらいは辛うじて理解できても、力量の底を推し測る事も出来ず、技量の詳細を語る事も出来はしない。しかし、だからこそそのスタイルの本質を素直に見据える事が出来た。
彼のスタイルは、強さではなく弱さ。攻撃を最大の防禦としているのではない。ただ、ぶっきらぼうなだけ。
命に対して重き無く、死には大して怖さ無し。それが故に守るよりも先に手を出して、攻める一撃に躊躇が無い。
己の身の一切を案じる事なく、ただ「如何でも良い事」と力を振るう。それでは――。
「骸人と同じじゃありませんか……!」
瞳に映した尾羽張を焼き尽くすような怒りが、心を焦がした。伊真は――怒っていた。
その伊真の心の内など露程も知らず、尾羽張は戦っている。
(……如何して……俺は戦っているんだ……?)
激しく燃えていた激情の炎は、無為なる戦いの内に冷め、物思わぬ骸に取り込まれるようにして彼の心は虚ろっていた。
(確か……憎悪と怨嗟……だったか……?)
尾羽張の骨肉を喰らおうと眼前まで迫る骨顎を、鋼板仕込みのブーツの爪先で蹴り上げながら、ここには無い心で考えていた。
強引に夜空に向けられた骸兵の顎に目掛けて無雑作な踵を落とすと、そのまま頚椎、そして腰骨までに一気に振り抜き、左右の半身に砕き割る。それを確かめるわけでも無く虚ろな瞳で骸達を見据え、それから自嘲と共に零した。
(如何でも……良い事……だな)
怒りも、恨みも、讐いも、思えばただの一時の迷い。己が意志など、とうに失くしたハズではないか。
(俺はただ、……姉さんの遺志を継いで、蛇共を根絶やすだけで良い……)
踏み込みの一歩と同時に、右腕を横薙ぎに振る。波状に寄り来る七つの骸が、背骨を叩き折られて上半身を取り落とした。
振った腕の遠心力に負けてフラリと足取りを崩したのは、正にその直後。視界が一瞬、朧げに歪む。立ち眩みにも似た症状。どうやら、今朝方の失血による疲労が、今ここに来て襲って来たらしい。大地に突き立てる左脚の踏ん張りが利かなくなっていた。
支え切れない上体だったが、曲げた左膝に両手を乗せて辛うじて堪えた。
上半身の力も含めた全ての力を脱力した左脚に叩き込むようにして崩れながら、虚ろな眼で迫る三体を映し取る。
右手の一体は、手近の墓碑の欠片を掌中に収め、殴り付けようと振り被っていた。
中央の一体は、二度目の眠りに就いた仲間の半身を担ぎ上げ、叩き付けようとしている。
左手の一体は、蝦蟇蛙にも似た姿勢で跳び掛かり、タイミングもピタリと合わせて一人お先に掌骨を振るう攻撃へと移っていた。
的確に状況分析を済ませてから、尾羽張は冷静に――しかし無気力に――廻る思考で反撃の道を探った。
鋼板仕込みの蹴り――軸足となる左脚がスタンバイに無い。反撃に転じるには、あまりにも生じるタイム・ラグが長い。
両腕を用いた掌握――掴み、握り、破砕すると、三段階を要するこの攻撃では、骸の攻撃を止める事は出来得ない。よしんば止める事が出来ても、それは最大で二体まで。
《天尾羽張》を用いた斬撃――まだ攻撃の前段階の二体は止めれても、既に攻撃へ移っている左の一体の一撃は止まらない。漫画ではないのだ、攻撃者の活動が止まった所で、繰り出された一撃の慣性は消える事は無い。
ならば、注ぎ込んだ左脚の全力をバネにして、その場を離れれば良い。後には数秒前まで自身が立っていた場所に、隙だらけの三体が固まって骨を曝け出しているであろう。煮るなり焼くなり、好みに応じて処分すれば良い。
状況分析は瞬き一つにも満たない時の間だったが、それを読み取った八咫の洞察力もまた卓越した物。骸達との戯れ合いから見取った底無しの体力と、叢雲との一瞬の交錯で見せた咄嗟の判断力と対応能力。
尾羽張のそれらの総合能力を知るからこそ、八咫は―逆月―の加護を贈るような愚行は起こさなかった。―逆月―は外部からの攻撃を防ぐ一方で、内部からの攻撃も妨げる。それは即ち、行動範囲の限定に繋がるに他ならない――例えば、尾羽張がその場を大きく飛び退いた時、思い切り頭をぶつけるような間抜けな事とて起こり得る――。無闇に贈れば、バック・アップのつもりが邪魔に成りかねないのだ。
だから、八咫は尾羽張の一瞬の判断力に後は任せて放っておいたのだ。
しかし――まさか、八咫のその洞察力の基に弾き出した判断が裏目に出ようとは。
尾羽張は、全力を注いだ左足に力を込めると、それを軸足にしたまま、右腕を振るっていた。