第十一章 その心、澄みたる故に邪に染まり...
「Haah!!」
気合一閃、海泥麒の右の鉄扇"白百合"――桜色の地に、小首を傾げる白百合が二差し紋取られる、鉄の骨組みを持つ扇子だ――が、対する骸骨の、惰弱な左頬骨を容赦無く叩き砕いた。
続き、左方から迫る骸骨は、海泥麒が左腕を伸ばしたその瞬間、頚椎を砕かれ、地面に頭部を転がし落とした。先刻飛ばした鉄扇"紅薔薇"――白地に花咲く大輪の薔薇を紋取られる、同じく鉄の骨組の扇子だ――が、狙い寸分違わずに、大きく弧を描いて主の元へと戻って来たのだ。
しかし、生者に対しては致命的なその一撃一撃も、既に死を体験した者の活動を停止させるには至らない。ただ、一瞬動きを止めた後、また緩慢な動きで生を貪り喰おうとやって来る。
同じくしかして先刻承知。"白百合"と"紅薔薇"を閉ざしてその場を飛び引き間合いを取りつつ、力を溜めて右腕を大きく後ろに振り被る。
「Crush...!!」
呟き、溜めた力を解放する。右の腕を大きく振るった。倣い、踊る振袖は、大きく広がり画布となる。
闇夜に広がる真白な敷布は、襲い来た二体の骸骨をそのまま包み取り、
ゴリ!!!と言う怪音を残し、骸骨を二体とも粉々に擂り潰した。
半時間にも及ぶ戦いの中で解かったのは、二つ。一つは、骸骨共は、構成する骨自身が自分の存在意義を見失う程に砕くか潰すかしない限り、幾度でも復活し、いつまでも活動を停めない、と言う事だ。あと一つは……
何体骸骨を潰そうと、敵の戦力は減らない、と言う事だ。今も、減った二体に続き、また二つ墓土を掘り返して骸骨が甦って来る所だった。
「...Shit...!!」
呟きは、苛立ちを超えて虚無感さえ臭わせていた。
無雑作に振り下ろされる掌骨。僅かな足運びでそれをやり過ごす。それに気付く事は無く、掌骨は地面を打つ。
ボゴォ!!と、土を散らして掌骨は大地に大きな穴を穿つ。結果として目眩ましの役目を果たした土幕の間から、思い掛けない速度で大腿骨が飛んできた。
それを《建御雷神》で叩き落すと、改めて姿勢を正す。見ると、遥か後方から一体の骸骨が、近くに在った仲間の骨を放り投げたのだと解かる。
目を近傍に移すと、大地と一緒に右掌骨を粉々に砕いた骸骨が一体。他にも、佐土布都の正面から波のように間合いを詰めるのが更に五体。緩慢な動きからは想像だに出来ない破壊力を有する不死の軍勢を前に、じっとりとした汗が額から頬へと滴り落ちた。
「全く……」
乱した呼気を静かに整え、佐土布都は『聖剣』を八相に構えた。
「好い加減に……」
呟きに力みが加えられる。そして、《建御雷神》の刀身に龍蛇の如く、雷が纏い踊った。
「しろよな!!」
……ズガッ……ゥン……!!!!!
炸裂音が轟き、佐土布都の前方に、蒼い閃光が乱れ舞った。
一瞬の光のアートのその後には、焼き尽き崩れる六体の骸。土が吸った水分を一瞬で蒸発させ、墓石をも含めた何もかもが煤けた色で焼け焦げていた。
(あと……一撃……)
残存する体力の限界を概算し、佐土布都は大噛を睨み据える。蛇を殺りたきゃ頭を潰せ。
(簡単に言ってくれるよ……)
脳裏によぎった格言じみた言葉に、強い反感を持って答えた。
しかしそれでも……言っている事は正しいから、頭に来たりもする。
「うぅおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!!」
大上段に構える。雄叫びに応じ、刀身に乱れ舞う雷がその勢いを増した。
「ぉぉぉぉぉりゃあああァァァァァァァ!!!!!」
力の丈の全てを乗せて、その一刃を振り下ろす。
ッシャン!!!!!!
ガラスを砕き割った音を更に凄惨に彩るような爆炸音。大地を抉り削りながら、弧月に成った雷の刃が大噛へと襲い掛かる。電気伝導率もアースも関係無い。その雷は、神秘と言う言葉だけを頼りに、今、この場に顕現していた。惜しむらくは、超物理の法則は、雷の伝播速度を光速から遥か低くに貶めている事か――それでも尚、常識外の高速を有するが――。
迎える大噛は、自分の俊敏さの限界を計り、避け得ぬものと悟って取る。仕方が無いと早々に諦めると、雷刃と自分の直線状に《大雷邪巳》の頭を置く。《大雷邪巳》は大顎を惜しみなく開けて待ち受けると、迫る雷刃を一口で飲み込んだ!!
ボゴ!!
鈍い音がして《大雷邪巳》の腹の中程が派手に踊った。腐肉が飛び散り、大地に墓碑に穢れを落とす。
『剣聖』と『聖剣』は魂の絆で結ばれる。『聖剣』が受けたダメージは、そのまま――時には、それ以上に乗算されて――『剣聖』を襲う。
《大雷邪巳》が受けた痛痒に、大噛は膝を折った。
霞み消えそうな極度の疲労の中で、佐土布都は「イケるか……?!」とも思ったが、それ以上の何も望めなかった。大噛は少し巨体をよろけさせながらも、再度仁王に立ち上がった。
「貴様!!大噛様に何をなさる?!」
叫び、返したのは、大噛の傍らで戦況を眺め続けていた火端だった。彼は手にしたフランベルジュ――銘に持つ《Muspells Heimr》は、「終わりを齎す炎の王国」の意味を持つ――を、横薙ぎに払う。
炎が吹き荒れた。炎の火線は狙い違わず佐土布都に向かう。
「クソ……!!」
力の入り切らない足腰を叱咤し、酷使し、振り絞った最後の気力で横飛びにその場を離れる。1[sec]前に彼がいた空間を舐める炎の舌が、ムァ……とする熱気を運んだ。
地面を無様に這いながらも立ち上がろうと、持ち前の根性で四肢に力を込めたが――駄目だった。大地を掴んだ腕は挫け、残った気力で持ち上げた体を地面に叩き付けただけだった。
骸が二体、緩りとした歩みで近付いて来た。ままならない舌打ちを残し、その場から離れる。威勢良く飛び引くのではなく、体を樽のように転がして、惨めにだ。
何かに当たり、止まった。石碑では無さそうだ。返る弾力でそうと知れる。
それが何かと見上げると、男が一人、手にしたダガーを逆手に持ち振り上げていた。《Consealer》で姿を隠し、密かに間合いを詰めた倉坂だった。
咄嗟に身を捻ろうにも、溜まった疲労が瞬発性を食い潰していた。
「死にな」
残虐な笑みとそれに見合った呟きを零し、倉坂がダガーを振り下ろす。よりも一瞬早く、彼は叩き飛ばされた。
何かに叩き飛ばされた倉坂に代わり、佐土布都の視界を白い敷布が覆い尽くした。そして、その白に優しく包み込まれると、フワリと宙に投げ出される感覚が襲った。
時間にすると、僅かに2[sec]程度。視界を捲いた白がスルリと消えると、浮遊感に続いて、1[sec]にも満たない落下と、軽く身を打つ衝撃が襲った。
「あ……りが……と……」
「No thank you.」
首を回す事も億劫に視線だけを運び見ると、広げた袖口が今正に元の大きさに戻った所だった。
視界を奪った白は、広く広がった海泥麒の巫女装束のその袖。『剣聖』海泥麒の振るう『聖剣』《鷹の衣翼》は、戦いが始まって以来、幾度と無く仲間の危地を救っていた。見ると、市川・後藤・都筑の三人も、《鷹の衣翼》の救いの手に落ちたばかりのようで、三人が三人共に大きく肩で呼気を吐いていた。市川など試供品の棍が折れ、仕方なく武器に用いたその拳の皮が破け、血に塗れていた。
「どう?大丈夫?まだイけそう?」
一人呼気に乱れなく、海泥麒が佐土布都に問うた。
「ン……」
五人の中で最も激しく立ち回っていたはずなのに……と、桁違いの体力差を実感しつつ、佐土布都は答えた。
「五分くらい時間貰えれば、一発分くらいなら回復する……」
「元気ね。若いって良いわ。回復力が違うもの」
「……何も知らずに聞いてたら、結構興奮しちゃう会話ですね……」
茶々を入れる市川に、海泥麒の容赦無い裏拳が決まる。
四つん這になり、大きく肩を上下させる佐土布都。肩に骸骨兵の一撃が掠り、どうも骨にヒビが入ったらしい都筑。棍無しではまともに立てない後藤。拳の皮が破けた手で、激痛走る鼻面を押さえる市川。四人の仲間を見回し、海泥麒は唇の端を吊り上げる。
「What shall we do?」
自問に自嘲を重ねた。
的確に物を言うならば、状況は最悪だ。蛇の頭を潰そうにも、その道を物言えぬ骸が立ち塞ぎ、まともに近付く事も叶わない。仮に近付けても、操炎の『聖剣』の炎熱が待ってましたとばかりに荒れ狂い、追い返される――《鷹の衣翼》は、炎を操るタイプの『聖剣』とはとことん相性が悪かったりする――。遠間からでも狙えない事も無いが、残念ながら、《鷹の衣翼》の遠距離攻撃は、手練を相手取るには向かない。そのことごとくが徒労に終わる事は、既に確認済みだ。
遠距離戦でも充分に渡り合える戦力である佐土布都は、その高い戦闘力を自前の戦術的未熟さで以って見事に無駄遣いをし、このザマだ。
残った三人は、群がる骸骨兵から身を守るので手一杯だった。まァ、生身でありながら長時間遜色無く戦い続けていたのは、日頃の修練の賜物だと賞賛できる。
正直言うと、「お手上げ」状態だが、根を上げるわけにもいかない。敵はまだ、余力を余す事無く残しているのだ。何しろ、《大雷邪巳》の操る不死の軍団以外には、《Muspells Heimr》の炎撃と、暇を見付けて合いの手を入れる程度の《Consealer》だけしか戦いには参加していないのだ。例え不死の軍団を殲滅した所で、まだ敵の首魁も残っているのだ。
ジリジリと扇形に間合いを詰める二十体もの死者を前に、一人で踏ん張るだけ踏ん張ってみるかと腹を括った海泥麒は、唐突に動きを止めたそれらを確認し、一瞬、事態を訝しむ。が、すぐに死者操演の演者に視線を向けた。
「何故だ?」
大噛は、苛立たしそうに声を上げた。腐肉と龍鱗の鎧兜の下から覗く赫い瞳は、凶々しくギラついていた。
「何故、戦う?!」
荒げた声が、闇に木霊した。
「そこまでして、この勝機の無い戦いに身を置く理由は、一体なんだ?!」
迷った。一体、何故そのような事を尋ねる?油断させて虚を突くつもりか?
……違うだろう。海泥麒は断定した。流れは、明らかに敵方に傾いている。黙って変わらぬ物量戦を続けていけば、溜まった疲労に押し潰されて、勝手に自壊していくのは目に見えた事だ。戦の流れを止め、わざわざ疲労を拭う余裕を与える理由なぞ無いはずだ。
意図は、結局読めなかったが、目先の疲労回復に専念するのが得策かと思った。だから、彼女は答えた。
「For my Friends」
凛とした言葉に、残る四人も肯く事で返す。
「……」
返る答えに、元々赫い大噛の瞳が、更に赤味を増したように思えた。
「チッ……ヘドが出るぜ……」
噛み合わせた歯がギリ……と、音を立てて軋みを上げた。洩らした呟きの中には、極め付けの嫌悪感が込められる。
「大噛様?」
火端の呼び掛けに、憤りの嫌悪を含んだ視線が、その照準を僅かにずらした。
「どうしたんスか?黙ってしまって。放っとくと、奴らの疲労が回復しちまうッスよ?」
大噛の指令があり、骸兵共々に攻撃の手を休めてはいるが、無駄に時間を置くのは、文字通りに無駄だ。次の指示はどうしたのかと、火端は差し出がましいながらも意見した。
大噛はその意見に対して、数秒の間も置かずに答えた。
「吐き気がする……。燃やし尽くしちまえ。全て」
「……了解」
火端の返答に少なからぬ間があったのは、「巫女さんまで焼いちまうのは勿体無い」と言う、未練があったから。とは言え、大噛の命令は絶対だ。逆らえもしなければ、逆らうつもりも無い。
「てェワケだ。お前さん方!!」
二人の間に成された会話が聞える状態ではなかったのに、ワケも何もあった物ではないが。
「大噛様はこの催しには飽きちまったらしいからよ。死んで貰うゼ!!」
フランベルジュの刀身に、新たに炎が乱れ舞った。先刻までの炎の術が単なる火遊びだとでも言わんばかりに、巨大な炎柱を成す。
(本当……ヘドが出るゼ……)
炎の赤で煽られ、揺らめく影を落としながら、大噛は繰り返し呟いていた。
(街の為だと……?友の為だと……?綺麗事を並べやがって……!!)
そう言った類の言葉を耳にする度、胸の奥底から沸き上がる嘔吐感。それらの言葉の中に叩き込まれる想いを、大噛は理解できない。事は無い。寧ろ、苛立ちを覚える程に理解できる想いだった。それが故に、激しく厭悪するのだ。
昔の自分を、思い出させられて。
十年以上前だったか。まだ、その身が『剣聖』の鞘として機能していなかった頃。
大噛は、この三津草の町よりももっと北の地に在る町で、今の海泥麒達のような自警団員として働き、今の大噛達のような外敵から町と民を守る任に就いて、身を粉にしてきた。
当時、名は草壁慎と言った。類稀なる巨体と筋力は、奪う為ではなく、守る為に奮われていた。それが自身の誇りであり、町の誇りであり、何より、愛する妻と幼い息子の誇りであった。
今にして思うと……茶番に真剣に取り組むピエロもいい所だったと自虐する。
あれは、寒さが肌身に染みる日だった。冬ではなかったが、土地柄が、この辺りの冬よりも寒い気候を形取っていた。そんな、或る寒い日の昼直前。
仲間五人と共に、警邏の真最中。人通りの多いメイン・ストリート。唐突に、何かが潜り込んで来た。何がどこ潜り込んで来たのかは定かではなかったが、そんな違和感――今にして思えば、それが何だったのか、明白だったが――。
寒いはずの体は熱く火照りを憶え、そのくせ、魂は冷たく凍えて麻痺しようとさえする。
巨体は崩れ落ち、熱い悪寒から身を守ろうと、丸太のように太い両腕で全身を抱え、子供のように蹲った。
「慎?!どうした?!大丈夫か?!」
友と呼んでいた男が、彼の肩に手を置こうとする寸前、爆ぜるようにして光が乱舞した。土気色のおぞましい、死に星の乱舞。
抱えた全身が、剥くれるようにして膨れ上がったのがわかった。
死に星達が消え、弾けてから暫らく、静寂が空間を支配した。子供達の元気な笑い声も、荒くれと紙一重の現場労働者の気風の良い声も、昼飯支度の主婦達の井戸端会議に花咲く声も。町の賑わいの一切が消え、無音の訪れを受け入れていた。
熱さも寒さも消えた体を、少しだけ動かした。
グジュリ。気味の悪い音が、すぐ近くでした。一度、腐ったリンゴを握り潰した事があるが、アレに似た、生理的嫌悪感を催す異音。
音の正体がなんなのか。確認しようと視覚に意識をやった時、気が付いた。何か……おかしい。
見えたのだ。正面で意識を失い倒れ伏す女性を。背後で恐怖に震える若者を。同時に……!
視覚の混乱に、視線を巡らせる。二つの視線を同時に。片方の慣れた視線は自分の両腕に。一方の慣れぬ視線は取り巻く周囲の街人達に。
腕は、腐っていた。ヘドロのような腐った茶色の肉は、爛れ、腐汁となってぬめ付いていた。
町人は一様に、怯え、恐れ、蒼白になった表情で、合わぬ奥歯をカタカタと打ち鳴らしていた。
誰かが呟いた。歯の根も合わぬ、舌使いも足らない、怯えた声で。
「化け物」
と。
その一言を皮切りに、皆、逃げ出した。ある者は全身の筋肉を全て走力に変え、限界以上の速度を出して。ある者は抜けた足腰に頼らず両腕を使い、赤ん坊のようにノロノロと。蜘蛛の子を散らす勢いで、草壁の前から逃げ去った。
一人取り残された草壁は、緩慢な動きで見上げた。
そこには、居た。赫く穿った瞳を持つ、腐肉腐鱗の大蛇が見下ろしていた。
そこには、居た。赫く穿った瞳を持つ、腐肉腐鱗の巨人が見上げていた。
不意に理解した。醜怪なる大蛇が自分自身の魂だと。怪異なる巨人が自分自身の体だと。
恐怖に射竦まされそうになる体は逆に、限界以上の力でもって
走り出した。愛する妻と息子のもとへ。逃げ出したのだ。追い憑かれる事など、火を見るよりも明らかであるのに。
見慣れた我が家に着き、扉を開け放つ。共に生涯を歩んで行こうと約束した女性の姿を見るなり、助けを乞うていた。
悲鳴が響いた。若い女性と、幼い少年の。三人分の食事が机の上から落ち、音を立てて散乱した。妻は、息子の手を取って裏口から逃げ出した。「化けの物ォォォォ!!」と、獣のような声を張り上げて。
妻の悲鳴に、そうだ、と、呟いていた。今の草壁は、ハタから見れば化け物以外の何物でもないのだ。自分自身でさえも取り乱し、逃げ出してしまう程の醜さ。女性や子供が、初見でそれを愛する者だとどうして知れよう?
ペタンと腰を落としたつもりだったが、効果音はベチョリと生臭い音。腐蛇の瞳を通して見える自分自身を見下ろしながら、冷静さを取り戻していた。冷静さを取り戻すと、何となくだが、その蛇が人の間では『聖剣』と呼ばれる存在なのだなと知れた。理屈に沿って下した判断ではなく、それがさも当然であるように知れた知識だった。
ならば、慌てる必要など無かった。聞いた話では――この町には、幸か不幸か『聖剣』はいなかったから、人づての噂しか流れてこない――、『聖剣』は『剣聖』の意志に従いその存在を納め、意志に従い動く。いかに醜悪な姿をしていようと、我が力にこそなれ、害になる事など無かったのだから。
町の皆と、妻と息子が落ち着きを取り戻したら、腰を落ち着けて話し合えば良い。共に戦い、町を守ってきた仲間なのだ。解かってくれるさ。
思い、『聖剣』を納めようとした。全て、混乱を収めさえすれば、昔から馴染んだ習慣のように、体がその全てを覚えていた。
悲鳴が響いた。聞き慣れたはずの女性の声で、絹を引き裂くように騒々しく。続き、「ママァ!!」と言う悲痛の叫びが響き、それもすぐに苦悶の叫びに変わった。
本能が、最悪の予感を感じ取り、結局、『聖剣』を納める事ももどかしく、裏口から外に出た。
囲まれていた。先程まで肩を並べていた五人の自警団員を筆頭に、他の自警団員が数名。それと、先刻、草壁の姿に恐れ戦き逃げ出した町人達。総勢にすれば、三十人程の少ない数ではあるが、恐怖に殺気立っていた。
つい先刻には草壁の身を案じてくれていた友が弓を引き絞り、射掛けていた。目標は、草壁の目の前に転がる、二つの骸。鮮血を大地に濡らし、折り重なる大小二つの男女の骸。
惨劇を咎める、先刻の草壁の変容を目にしなかった自警団員が、草壁の異容に咎めの言葉を飲み込む。
友が言った。
「見ろ!!あいつは化け物だったんだ!!その妻も息子も、化け物に決まっている!!」
狂った理論だった。恐怖は、全ての冷静さを失わせていた。
友の号令に従い、自警団員と町人達が一斉に矢を番えた。放たれる。訓練を受けていない町人達の矢は、見当違いの所へ飛んで行くが、戦友達の矢は、的確に草壁を襲った。
矢は、腐肉の衣と腐鱗の鎧に阻まれ、草壁に何の痛痒も与えなかった。
草壁は、吼えた。自分は一体、誰の為に戦ってきたのか?と自問しながら。
腐蛇が、吠えた。これから描かれる地獄絵図に期待を寄せて。
皮切りは、二体の新鮮な死者を弄ぶ事から始まった。
草壁は、「人間」と言う物に、憎悪さえ抱くようになった。自分自身を含めて……。
「死ねェい!!」
炎の剣から撃ち出される九本に及ぶサラマンドラの舌。螺旋に絡まり、一つの歪な巨大な円柱となり、一つ所に纏まり集まる五人を襲う。
市川が右側へ、一足飛びに場を離れる。肩に走る激痛を気力で押さえ込んで都筑も続き、左へ逃げる。
最も先に反応を示した海泥麒が出遅れたのは、背後で状況に対応できない、後藤と佐土布都の二人に気が付いたから。
「Jeasus...!!」
神の御名を唾棄した。そして、覚悟を決めた。
眼前に迫る炎の焼撃に恐怖しながらも、背後で足りない気力を叱咤する二人に向き直り、《鷹の衣翼》の両腕の振袖を広げ、各一人ずつを包み込む。
二人を包み込んだ事を確認すると、大地に突いた両足に力を入れ、それぞれを市川と都筑に向かって放り投げた。
「御願い!!」
願いを込めた海泥麒の言葉に反応した二人は、それぞれに腕に怪我を負いながらも、自分の分の役割を果たす。
「海泥麒さん!!!」
「海泥麒!!」
都筑と市川の悲痛の声を決死の覚悟の中で聞き入れた。
("1" sad is less than "2" sads.)
二人を放り逃がしたままの態勢で、胸中で呟いていた。迫る焼撃を避けるだけの身体能力が備わっていない事は、自分自身が誰よりも熟知している。
(Never tell Isana something my saying...)
自嘲を零し、心根優しい親友の顔を思い返した。
海泥麒の名を呼ぶ声が、同時に幾つも重なった。悲鳴に似た叫びは全部で四つ。そして……更に三つ?
訝しみを疑問に変えるよりも先に、眼前に炎が拡がった。爆ぜるようにして、海泥麒の眼前で花を咲かせる。紅の花は、海泥麒を舐める事を拒んだ炎の舌の熟れの果て。
守られていた。不可視の球殻形のシールドに。流れて散った炎の奔流が、見えないはずの球殻を、確かに目視させたからこそ理解できた事。
「―Rev, Moon―...? ―逆月―……?八咫ちゃん?!」
呟きに、生気が戻る。この場と自警団詰め所を結ぶ直線上に視線を遣れば、まだ遠く離れていたが、見慣れた人影が三つ、並び走ってやって来る。
「We escape from death...」
安堵に呟き、窮地に立たされた恐怖が、ドッと彼女に押し寄せた。