第六章 その追跡、始まる戦の序章とし...
夕暮れ時。もう暫しの時間が過ぎれば、空は雲と太陽の支配を逃れ、次いで、月と星とに支配されるであろう。
街行く人々の雑踏は、往路のものではなく、大半が帰路のもの。花咲かされた井戸端会議も、終わりに近付いている事であろう。
そんな人々の往来の中で、彼らは歩いていた。先頭をはしゃぎ歩く五尺童子、それを諌める二十代早期の女性、後頭部に手を回す少年。しんがりに、根を携える男が三人。
「やっぱり……平和が一番だよねぇ……」
多くの店は店仕舞いを終えているが、元気に仕事を続ける人々と買い物客との活気だけでも大した物。ここは三津草の街の商店街だ。
人と擦れ違うその度に、出会う人は皆見知った顔ばかり。老若男女様々な知人達に笑顔と挨拶を返しながら、少年――佐土布都建御はそんな事を呟いた。
佐土布都建御。十七歳。適当に切り揃えた髪の毛の色は黒。身長は歳相応で、高くも低くもない。特に美形と言うわけではないが、性格的な面で、時折同年代の女の子から好意の視線を送られる事もある。だが、現在はとある女性に片思い中、脈無し。
上着に羽織る黄色のウィンド・ブレイカーの右胸には、楷書体で書き殴るようにして「三津草自警団」のロゴ・タイプが赤糸で、「佐土布都建御」の文字がその下に白糸で縫われている。ちなみに、黄色地に白糸と言うのは、非常に見難くなっている。
「It's hardly necessary to say , but it's a matter of course like that.」
佐土布都の呟きに対し耳聡く返した声は、流暢な英語を操る女性の声。
佐土布都よりも一歩前を歩く女性の声だ。踵を返して全身で振り返ると、ポニー・テール状に結わえた髪の毛が、夕焼けの街の空気を縫って揺れた。その髪が赤く見えるのは、何も太陽の光のせいではなく、古き血筋に潜り込んだ異国の者の血の流れのため。ただ、どこの国の血かは、本人も知らないでいる。
海泥麒麟。二十二歳。前述の通りの赤髪の、笑顔と元気のはつらつさが似合う美女。身長は、佐土布都よりも少し高いようだ。少し腰を曲げたその姿勢状態で、年下の佐土布都と丁度眼の位置が合う。佐土布都の黒い瞳に対するのは、碧い、宝石のような輝きを持つ瞳だった。
彼女を包む衣裳は、襟元などには鮮やかな赤で彩りを加えた、純白の巫女装束。異国の者との混血であるはずの海泥麒に、その和風の衣裳は奇妙な程に――と言うよりもむしろ、奇妙に似合っていた。ただ、その衣の下に見え隠れする黄色のウィンド・ブレイカーだけは、どうにもいただけない。まァ、本人が気に留めていない以上、どうのこうのと言う事はお門違いだが。
「自分達にもそんな事わかってんだからさ。いちいち口に出さなくたって大丈夫よ」
「そうだけどさ。思った事って、気ィ抜いてると、自然に口に出ちゃうもんじゃない?」
「フム……実に理に適った一言ね……」
腕組みをしながら、海泥麒は同意の示す。そして、
「でェも、その割になぎちゃんにじぶんの気持ちを伝えていないのは、一体全体どうした事なのかしらン?」
海泥麒に小肘を突付かれ、夕焼け空の下でカモフラージュしたかと疑う程に佐土布都は赤面した。
「べ!!……別に、僕は薙葉の事なんか……」
「何とも思ってないのかしらン?」
グッと屈み込み、器用に後ろ向きに歩きながら佐土布都の顔を下から覗き込む。見取ったその表情は、明らかに狼狽していた。
佐土布都は、別に自分の気持ちに気付いていないわけではない。薙葉の事が好きだ。理解しているし、否定するつもりも無い。ただ、人から言われたり、自分から口にしようとすると、意地になって言葉を成さない。だから、今までも。きっと……これからも片思いのままなのだ。そんな半人前な思春期少年しているから、海泥麒にからかわれるのだ、彼は。オレが一度、殴り飛ばしてやろうか。
「ま、良いケドね。『好き』の一言も言えない内に、なぎちゃんを他の誰かに取られたって……自分にゃァ無関係だし。困るのはさじふっちゃんだけっしょ。It depends on yourself that you're going to be grad or feel so sad in future. O.K?」
意地悪く、とても愉快そうに微笑んだ。小悪魔的なその笑みが、佐土布都をさらに大きく落ち込ませる。なかなかどうして、イイ性格をなさっている。
佐土布都の背中越しに、青年――じゃないのも含めて――三人が、肩を震わせながら笑いをこらえている。市川春斗(23)・都筑黎司(21)・後藤貴定(42)である。脇役の分際で大層な名前を与えられただけでも、筆者に感謝して欲しいものだ。
三人も皆一様に、佐土布都同様の名入れのウィンド・ブレイカーに身を包み、身長に合った檜製の棍を、できるだけ街人達に迷惑が掛からないように担いでいる。
「建御兄ちゃん?」
海泥麒より前に出て人波の中を元気に駆けていた少年が、佐土布都の足元に駆け寄り、年上の少年の顔を覗き込んだ。少年の身長では、佐土布都の顔を正面から見る事はできない。
少年の名は水無月霖。先月誕生日を迎え、晴れて十二歳になったばかりの、無邪気と元気の盛りの小学生。クリクリとした大きな瞳は曇りの無い黒だが、髪の色は黒味がかった淡い茶色。長い異国間での混血が当たり前になった歴史の結果であり、本来、八咫・八尺瓊や、伊真・尾羽張のように、純然たる日本古来の「緑の黒髪」の方が稀少なのだ。海泥麒のように、国籍不明な髪色もまた、違った方向でもって稀少だが。
水無月もまた、三津草の街の自警団だったりする。今が私服なのは非番だからであり、彼も自分用のウィンド・ブレイカーを持っている。今は、遊び相手が皆帰宅してしまい、暇を持て余して海泥麒や佐土布都に付きまとっているだけだ。
「どしたの?まだ薙葉姉に『好き』って言ってないの?」
不思議そうに小首を傾げ、佐土布都の顔を尚も覗き込む。
「いや……まァ……な……」
「ふ〜ん……。だったらさ、ぼくが薙葉姉に言っておいてあげようか?」
しどろもどろの佐土布都に、我妙案得たりとばかりに水無月はそう言ったのだが……。
「やめれ。頼むから……」
と、神妙な面持ちでもって拒否された。理由は、水無月には解からない。彼の言う「好き」と佐土布都の言う「好き」の意味と質の違い。それに、「好き」の一言も自分の口から伝える事ができない情けない男としてのレッテルが貼られるのが耐えられないと言う、佐土布都の男の意地もまた、水無月が理解するには難しすぎる事だった。
「Well...How miserable... .」
海泥麒にすれば、今の佐土布都も充分情けない男なのだが……。呆れ果てた海泥麒の溜息が、夕陽に見舞われる三津草の街中に、淡く細く消えていった。
と――唐突に、海泥麒の歩みがその場に止まる。
首だけを巡り廻らせて、通り過ぎたばかりの左手の壁を返り見る。突然の事に、チョコマカと走り回る水無月が彼女の脚にぶつかってしまったが、口早に「Sorry」と応えただけで、特に気にした様子はない。
「……どうしたんですか……?」
また何かナジられるのかな……と、気を引き締めて佐土布都が構える。が、その視線が佐土布都に向く事は、結局無かった。
不審に思い、佐土布都も海泥麒の視線の先に自身の視線を重ねて見た。
特に――何も見付かるわけではなかった。
夕陽に照らし出されて建物の壁にまで伸びる、自警団六人の影法師。街を行き交う人々自身とその影法師。タイル敷きの大通り。煉瓦造りの建物の群れ。それらよりももっと上には、見馴れた日常の一部。夕暮れ時の赤焼けの空――佐土布都は、その色が一番好きだった――。
当の海泥麒は、佐土布都の問いに答える事もなく――これもまた唐突に――視線の方向へと小走りに動き出した。
行き交う人々の波を掻き分け、壁に――正しくは、その近くの空間に手を伸ばした。
パンッ!!肉と肉が激しく打ち付けられる音が鳴る。
海泥麒の腕が弾かれる。
弾いたのは、見馴れぬ青年の腕。
「?!」
一瞬の出来事に佐土布都の頭が混乱する。誰もいなかったはずの空間に、突如姿を現わす見知らぬ青年。見窄らしいマントを纏う、アナクロな青年だった。
目を丸くしているのは、佐土布都だけではない。自警団の年長組の三人もだ。海泥麒の行動に一瞬とはいえ目を奪われていた数人の街人達もだ。そして何より、海泥麒の腕を弾いた男自身もだ。水無月は、悲しいかな、幼い思考回路が状況について行っていなかった。
見掛けない顔。佐土布都とて、街人全員の顔を覚えているわけではないが、この温暖な気候の三津草の街で、マントなどと言うアクセントに富んだ装飾を着こなす男なら、忘れているはずも無い――皆が毎日、全く同じ着こなしをしているのなら、と言う前提の下での推憶だが。
兎にも角にも、海泥麒は男から警戒の視線を反らさないまま、「Who are you?」と訊ねる。
青年はそれに答える事なく、ただ咄嗟に踵を返すと、人波を押しのけて一目散に逃走を開始した。
ただ、英語に対する理解が乏しかっただけかもしれない。しかし、それだけで逃げ出す理由には――常識的見解からすれば――ならないはずだ。それよりもむしろ、「何らかの良からぬ、もしくは後ろめたい事を考えているから」と判断する方が正しいだろう。
「何ボサッとしてんの!!あの怪しい『剣聖』、追っ駆けるわよ!!」
海泥麒の叱咤の声に、放心していた四人と状況に未だ追いつけない一人は、彼女の後に付いて、追跡を開始した。