第二章 その怨み、尽きず心に蟠り...
夢を……見た……。
彼がまだ十五歳の少年だった頃の、忌まわしい夢を。
神と言う存在を呪い憎んだ、姉との別れの悪夢を。
(そうか……あれからもう……)
七年も経つのだ。
夜明けも近い時刻。乱れ並ぶ木々の間を縫うようにして走る夜風に身を晒しながら。朧月夜の下、年月を刻む巨木にその背を預けながら。
彼は――尾羽張萩利は耽った。
あれから、七年が過ぎ去った。渡り歩く旅の中で、過ぎ行く日々の中で、彼の剣技には磨きがかかった。身の丈も180[cm]を超えるまでに伸びた。
何もかもを棄てた七年前から切らなくなった髪の毛が、夜風に揺れて無為に踊っている。
彼は目立って筋肉質であるわけではない。しかし、鍛え抜かれた筋肉が、薄くも強固な鎧となって全身を覆ってくれていた。
ズキリと。脇腹が疼いた。激痛――だろうか?全身の神経を夜風の如く吹き荒び、それでいながら夜風とは違い、激しく熱いこの感覚が。
苦痛に表情が歪む事はない。七年もの月日を、来る日も来る日も蝕み続けた無気力感で、苦痛に対して無感情になっているだけだ。
そう――如何でも良い事だと。何もかもが。
(そう言えば……刺されたっけか……)
悪夢の世界に誘われてから、さして時間は経っていないようだ。十分も二十分も落ちていたなら、間違いなく残っている敵にとどめを刺されていたはずだから。――まァ、それでも良いか、とも思ったが。如何でも良い事だ。生きていようが、死んでいようが。
傷口を見下ろした。氷のように冷たく、石のように冷めたその瞳で。
今の彼は、黒い――それこそ、闇色だとか漆黒だとか言うのではなく。世の全ての澱みを呑み込んだような。月夜の闇に吸い込まれるのではなく、食い尽くすようなドス黒さの――マントと衣装に身を包んでいる。
傷口は、服の脇腹辺りに鋭く裂け目を入れ、深く抉るように喰らい付いていた。幸い――なのだろうか?自身の生死に無頓着な尾羽張には、その判断を下さないでいるのだが――にも、脇腹を抉った刃物は、内臓にまでは達していないようであった。
そんな一瞬。視界の端に捕えた閃き。月の光を金属が返す時の、鈍色の輝きだ。
粗末な装飾のダート・ナイフ。それが二本、木々の合間を縫って、夜風に負けじと空を裂いている。
尾羽張は、疾風の如きナイフの飛翔を、冷静に目で追っていた。目測しえたのは、そのナイフのスピードが遅いせいではなく、尾羽張の卓越した動体視力があればこそだ。
ナイフは、尾羽張を挟み込むようにして飛んでいた。喩えるならば、挟み将棋において獲物を狙う歩兵とでも言った所か。どちらにせよ、常識的観点から物事を見れば、明らかに尾羽張に当たるような軌跡を描いてはいない。
しかし、突如としてそのナイフは、その予想される軌跡を修正した。緩やかに弧を描きながらではなく、鋭く角度も持ちながら。二つの修正された軌道の交点には、尾羽張が立っていた。
常識では思いもよらない軌道の修正を、獲物である尾羽張は他人事のような落ち着きで眺めていた。
刃物の切っ先が狙うのが、自身の太腿である事は容易に認めて取れた。軽く自分の位置をずらすだけで、襲い来るナイフは凭れている巨木に虚しい傷痕を残すだけに終わる事も、想像に難くない。そして、尾羽張には動体視力と分析能力に従えるだけの身体能力と反射神経が備わっていた。苦も難も無く、無傷でやり過ごす事など、造作もない。
そして、それらの思案や思索の結果いかんに関わらず、自分自身に避ける意志が無い事もまた。彼自身、確かに理解していた。如何でも良い事であったのだ。いまさら、傷の一つ二つ増えようが増えまいが。
両足を駆け巡る確かな激痛。微動だにせずいた尾羽張の両太腿に、予想に違わず刃物が喰らい付いてきた。しかし、相も変わらずそれは表情には出てこない。
ザッ!と間髪入れずに襲いかかる黒い影。淡い月明かりに照らされたのは、黒装束の小柄な男だ。
手に持つのは、先程尾羽張の太腿に喰らい付いたばかりのナイフと同様のナイフ。匕首のように小脇に抱えたそれは、鉄砲玉のようだった。
別段、「死」と言う存在を恐れているわけではない。ただ、小男が余りにも不用意に近付いて来たから。こちらも無造作に蹴り飛ばしただけだった。丁度良い高さにあった、小男の喉仏を。
突き出した足は、小男の喉を突き破った。悲鳴を上げる暇もない。
傷口に掛かる荷重が、更に尾羽張の体を苛んだ。
血が飛沫き、尾羽張の顔に血染めの化粧となって残る。
ドス黒い服が、容赦なく降り注ぐ多量の血で汚れた。が、問題はない。時間が経てば色も馴染む。今までも、ずっとそうであった事だ。
絶命し、地面に崩れ落ちようとする小男。それよりも早く、淡く蒼い光が小男を包み、星屑達を残して……そして、消えた。光が失せた後に、小男の遺体は無く、小男が放ったであろうナイフ達も消えていた。だからと言って、ナイフ達が抉っていった傷口が消え、癒されるわけではなかったが。
後に残ったのは撒き散らした血の霰と、小男を包んでいた装束だけ。
(『聖剣』を手にした者達の――『剣聖』としての末路……。今夜殺した奴らもそうだった。姉さんもそうだった。殺して尚恨みの消えぬ蛇眼の蛇男もそうだった)
締め付けるような哀しみ。フツフツと湧き上がる怒り。それを感じ取った時、尾羽張は、まだ自分の中の心が消え失せていないと言う事実に気が付いた。そして……嘲るかのように笑みを洩らしていた。――如何でも良い事ではないか、と。
巨木に、もう一度凭れかかった。
自然の織り成す天幕に見惚れた。深緑色を成す木々の葉々と真黒の闇。それらを引き裂く金色に輝く星屑達。
「そう言えば……。」
姉さんは、こんな月夜が大好きだったな。彼女は、よく言って聞かせてくれたものだ。
「星ってさ。闇が怖くて必死に輝いているのよ。『僕はここにいるよ』『私を見付けて』って。淡い光で、広大な闇を懸命に引き裂いて」
夜空に輝く星を優しく見詰める姉の姿を、尾羽張は忘れる事ができずにいる。
彼女は、続けて喩えたものだ。「星」を「生」に。「闇」を「死」に。
「人も同じ。死ぬのが怖くて、必死に逃げて、蜿いて、叫んで、喚いて。『死にたくない』『生きている』って」
その後、決まって最愛の弟の瞳に、自分の瞳を重ねて言ったものだ。
「だからさ、萩利。自分から『死』を選んじゃ駄目よ。自ら生きる事を貫く事こそが、人が人であり続けられる理由だから。極論、他人を犠牲にしても良い。――あ、勿論、殺人を推奨するわけじゃないわよ?ただ……自分から命を断ったりしないで欲しいだけ。それだけは、何があっても約束して欲しい」
その後で、彼はいつも答えていた。姉を称える幻想的な月光に、ドギマギとしながら。
「当然じゃないか」と。大切な――いいや、大好きな姉を残して死ねるものかと、いつも。
まさか……その姉を犠牲にして命長らえるとは、思いもしなかったが……。
「約束……か……」
生きる意味を失って尚、姉の言葉を反芻する都度、死への意志を打ち消してきた。生きる意義を失っていても、姉との約束を破るわけにはいけないのだ。
そう思えばこそ、意図せずとも今日まで無駄に命存らえて来てしまっていたのだ。
しかし……。
「姉さん……御免よ……。今度こそ約束……守れそうにないよ……」
か細く……今の――日の光に照らされ始め、空が青白み始める直前の――星の光よりも、もっとか細く。呟いてみせた。守れないのも当然だ。彼自身に、生きていこうとする意志が無いのだから……。
そんな時、耳に届いた美しい音色。心に沁み入るような旋律。しかし、姉が喩える闇夜のように、死の薫りを匂わせる、残酷な律動。楽器に疎い尾羽張には解からなかったが、聞く者が聞けば、それがフルートの音である事が解かるであろう。
ガサリ、と言う音が聞えた次の瞬間、右方の草叢から飛び出してきた黒い影。
その狙いが自身の右腕であると直感した時、殆ど無意識にその黒い影に向かって振り下ろされる右の踵。相変わらず、自分の体を酷使する事にも、神経が苦痛を伝達する事にも、全く頓着しない動作だ。
振り上げから振り降ろしまでのモーションは、神業と称するに然るべき瞬間の連動。
骨の砕ける音が鳴り、土を赤く染め上げる。影は、獣だった。別に、どこかに変哲するものではない、野犬だ。
「やるわね」
若い、女性の声。それに伴いフルートの音がやんだ事から想像を巡らせれば、奏者の正体が姿を見せぬ女性であろう事は容易に想像出来る。
「私の大事な友達が死んでしまったじゃない」
「大事だともうのなら……俺の両腕を狙わない事だな……。この腕は、姉さんを振るう時に使うための、大事な腕なんだからな……。」
確かな怒りを込めて。尾羽張は声がした方に視線を向ける。
「あら、御免なさいね。凛々しい殿方が、まさかシスコンだとは思わなかったものですから」
そう言って、女性は楽しそうに笑ったようであった。姿が見えぬ以上、その口調からでしか判断が下せないが。
「否定は、なさらないのね?」
「事実……だからな……」
視線に孕まれた怒りは、まだ冷めてはいない。だが、口調は冷め、暗に「如何でも良い事だ」と言うニュアンスを含んでいた。
「まァ、よろしいわ。でしたら、今度はその腕を狙いませんわ。それと、友達ではなく、我が神の眷族を使う事にしますわ」
「よろしいかしら?」と言う問いに、尾羽張は一言「勝手にしろ」と答えていた。
旋律が鳴った。風が音を紡ぐ。フルートの音が語りかける。哀れなる標的の、魂の中に。
程無くして、小さな音が集まった。砂利と落ち葉を掻き分けて土を這いずる、小さな音が。
「……蛇……」
巨木を――より正確に言うならば、尾羽張を――包囲するようにして、緑の鱗を持つ者達が集まった。その数は優に三桁を超え、一匹一匹の「シューシュー」と言う舌の音が、合唱と成って聞こえてくる。
その後を追うようにして、出がかりの陽光に影を落とす木々を縫い、奏者たる女性が姿を見せた。目蓋を下ろし、自分の演奏に酔いしれているようにも見えた。
艶めかしく赤いその唇をフルートからそっと離すと、瞳を閉じたまま語りかけた。
「いかがかしら?私の『聖剣』、《沁みる者》の能力は?意志を持たない動物達に命令を下し、操る事ができますの……流石にこれだけの者達を運んでくるのは、骨が折れましたけどね」
舌をなめずる不協和音に囲まれながら、尾羽張は吐き捨てるようにして「最悪な趣味をしている」と呟いた。
「我が神の眷属に対して、随分な言い草ね……。まァ、いいわ。死に逝く者に対するせめてもの慈悲だと思って、許して差し上げます」
唇の端を僅かに釣り上げ、女性は笑った。
「もう一つ、慈悲をあげるわ。何か、この世に残しておきたいものはあるかしら?言葉とか、物とか、心とか。何でもおっしゃってみなさい?」
「――何も……ないさ……残したい物なんてな……」
自分の人生を振り返り、自虐的に呟いた。ただ、残った物があるとすれば……それはそう、「後悔」と呼ばれる物だろう。
「あら、無欲ねェ……ま、そうでしたら」
呟いて、女性は重い目蓋をゆっくりと開いた。それが開き切った時――尾羽張もまた、目を見開いていた。
赫い瞳。血よりも尚赤い、夕焼けよりも更に紅い。縦に長く穿たれた、真っ赤な蛇の瞳。
(……蛇眼……!!)
「死になさい」
笛の音が一際大きく鳴ったかと思うと、群れていた蛇達が一斉に飛びかかった。雪崩れかかるようにして、幾百、幾千もの顎が、尾羽張の肉へと目掛けて牙を剥く。一匹一匹の毒は弱くとも、これだけの数が集まれば人間の一人くらい、容易に殺せる。
「……思わぬ痛手ね……。たった一人の男に、大噛様から任された五人の部下全員を殺されちゃうとはね……。折角、手柄を立てるチャンスをいただいたのに、申し開きが立たな」
たった一つの獲物に食らいつき、蠢く蛇共の球塊を眺めながら呟いていた女性の言葉を途中で遮ったのは、強力な波動。圧力が体を打つ衝撃の波動ではなく、剣で一閃するかの如く魂を切り刻もうとする、鋭く研ぎ澄まされた斬撃の波動。その波動は、「刃物」とも「恐怖」とも表現できる、不可視の剣。
「な……!一体、何が……?!ヒィッ!!!」
カッ!と、波動は音を伴って弾けた。
「貴様の言う大噛ってのは……『蛇の輪廻』の八首魁の一人だな……?ここの近くの街に、いるんだな……?」
溢れる波動の流出が収まった頃には、あれ程いたはずの蛇の姿は、鱗の一枚も残さずに消え去っていた。代わりに立つのは、敢然と女性へとはだかる尾羽張の姿のみ。
体中を蝕んでいた傷は、先より更に満身創痍。しかし、魂中を蝕んでいた無気力感は、噴き出す怒りにあてられ、今や完全に拭い去られていた。
カシ……ィン……。
乾いた音で空気を穿ち、尾羽張の手に握られる超長尺の両刃剣が土を打つ。
「『聖剣』……?アナタ、『剣聖』だったの……?」
魂を両断されるような恐怖を刻んだまま、女性は声を震わせた。
「怖い……か?」
尾羽張が呟く。
「当然だろう……。これは……貴様ら蛇どもの天敵なんだからな……。邪巳の存在を斬り、その血を継ぐ者を刻み、与する者を消す……」
一歩、また一歩と間合いを詰めつめながら、彼は尚もゴチるようにして続けた。
「たかだか眷属の毒如きじゃ、もともと死ねはしなかったさ……。まァ、食い殺されちまってたら、流石にどうしようもなかったがな」
苦笑をしたのか、それとも嘲笑したのか。そのどちらとも取れる不気味な笑みを、彼は敵する女に向けた。
「日の出る国に、三振りの霊剣あり……。その霊剣、大蛇屠りの任に就きたる。三霊剣が極め振り。名を、《天尾羽張》。別に、《十拳剣》とも《天羽々斬》とも呼ばれる……。姉さんの残してくれた、大切な魂だ……」
続ける言葉に意味はない。ただ、言葉を続ける事に意味がある。死のその瞬間まで、女に恐怖を刻む事、だ。
『聖剣』《天尾羽張》。剣身は、反り身を持たぬ細身な両刃。長さは優に2[m]を超える。
柄は更に常識の範疇を超え、尾羽張がその名に示した通り、「十拳」に及んだ。ちなみに一拳とは、指四本分=拳一つ分の大きさを言う。
尾羽張の魂に受け継がれて続けた、太古の剣。かつては伊邪那岐尊神が佩いたと言われる伝説の神の剣であり、尾羽張の家系に、姓と血脈と共に、魂の内に継がれ続けた『聖剣』である。
七年前には尾羽張磨夜の内にあり、今はその弟・尾羽張萩利の手の中にある。
「き……貴様……」
「どうやら……まだ、姉さんとの約束を守り続ける事が出来そうだ……」
柄の鍔元辺りを右手で、中程を左で握り締めた。華奢だった磨夜自身を抱くつもりで、優しく……ソッと握り締めた。
「残したい物なんざ、一つもない……。けどな……姉さんの仇、『蛇の輪廻』、八首魁。消し去ってしまいたい物が……」
ヒュン……!朝の澄んだ空気を裂く音。一瞬、女の表情が恐怖に引き攣り、凍り付いた。
「山ほど……あるんだからな……!」
やがて……。絹を裂くような女の悲鳴が、目覚めて間もない朝の樹林に響き渡った……