第三章 その姿、見えぬあの身を重ね見て...

♪  来なさい 此処にします
   逆矛の 創り給いし楽園在り申します
   来なさい 此処に神の座しまする
   橋立の上 睦まじき愛の契り申します
   産屋に眠れる千五百子達を
   千代に八千代に見守り給う
   男 誘い給う 愛しき女の為
   妹に送る 新しき命を誘い給う

 歌が……聞こえる。ともすれば、幻聴かと訝しむ程に幽かに紡がれる歌が。
 優しい声音で旋律織り成す柔らかな心地。しかしそれは、尾羽張の心を包むのではなく、魂に鋭く突き刺さる。
 歌の調子からして、童謡だろうかと思った。しかし難い歌詞からそれを否定した。恐らく、地方に伝わる民謡か何かであろう。もっとも、尾羽張にとっては、そのどちらであろうとも、如何でも良い事であったが。
 今、尾羽張に関係するとするならば、その歌詞に込められている想い。
 生きる事を尊び、命への賞賛を顕わす喜びの歌。今も続いている命へも、これから生まれ出るであろう命へも、等しく歓喜を顕している歌。
 死を歓迎しているわけではないし、断命を推奨しているわけでもなかった。しかし生きる事への希望を忘れ、命への尊敬を見失った尾羽張には、その歌も痛々しい皮肉でしかない。
 その一方で不思議と感じられる懐かしさ。愛しい者に寄り添ってもらっているような……奇妙な安心感。
 一体、それが何なのか……。それを考え始めた頃、失われた感覚が、一斉に覚醒を始めた。
 視覚には、瞼を通してさえも映える黄昏の彩り。聴覚には、赤焼けの下を駆け回る子供達の無邪気な声。嗅覚には、空腹にまで染み渡る暖かなシチューの匂い。味覚には、唾液のヌメった不快な味。触覚には、柔らかく全身を包み込む蒲団の感触。
 余りに唐突に再起動を果たす全身の感覚に翻弄され、尾羽張は全身で不快感を味わった。
 ガラス張りの大きな窓が開け放たれ、頬を風が滑っていく。
「……クッ……」
 思い切って瞼を開けると、黒と微かな白との色であったはずの空を真っ赤に焦がした夕日が網膜に飛び込んできた。その色が命の猛りのように思えて、尾羽張はさらに魂を責め立てられた。
「あら、気が付きましたか?」
 声が聞こえた。若い女性の声だ。声だけから判断を下すならば、相当な美人であろう。それ程に美しく、ただ喋っているだけでさえ音色を奏でるような声であった。ただ、尾羽張には如何でも良い事であったが。声の主が美しかろうと醜かろうと。興味がないのだ。女性に――ではなく、全てに。
 声が聞こえると同時に、歌も途切れていた。女性が、例の歌を口ずさんでいたのであろう。
「どこのどなたか存じませんけど、どうぞご緩りとしていって下さいまし」
 心遣いの入った女性の声には答えず、尾羽張は黙って上体を起こした。頭を二・三度左右に振ってから、自分の置かれている状況を分析しようとし――やめた。如何でも良い事であった。現在の状況なぞ。敵対するようであれば、ただ戦うだけだ。そうでなくても、彼には関係がない。知る意味と必要など、彼が今生きている理由と同様に、無いのだ。
 ただ彼は、自分が知りたい事だけを簡潔に訊ねた。
「何日経った?」
 女性の方を振り向こうともしない。ただ、簡潔に訊ねた。
「……何が……ですか……?」
 女性は、尾羽張の質問の真意を読み取れず、問うて返した。
 暫しの沈黙。尾羽張は、小さく溜息をついてから、もう一度訊ねた。今度は、わかるように。
「俺が気を失ってから、何日が経った?」
 今度は、きちんと意図が伝わったらしい。
「わたくしが貴男を見付けましたのが今朝方ですけど……。貴男がいつからあそこに倒れていましたのかを存じておりませんから正確かどうかはわかりかねますけど、傷の具合から窺ってみましても、せいぜい半日強だと思われますわ」
 半日強?答えを胸中で反芻してから、疑問が湧いた。
 試しに、掛け布団の上から自身の右足に触れてみる。
 特に、異常はない。弄ってはみても、異常は見当たらない。そして、その事自体が異常である事は、瞬間的に窺い知れる。
 あれ程の傷が、たかだか半日――よしんばそれが一週間であったとしても――これ程見事に完治しているはずがない。七年間で、記憶の底にも残す事ができぬだけの数の手傷を負ってきた彼自身が、自分の持つ治癒能力の限界を一番よく理解している。
 では、何故今、こうして自分の傷がここまで見事に完治しているのか……?その疑問に辿り着く前には、一つの結論へと達していた。
 如何でも良い事だ。どのような経緯であれ、こうして死に損ない、結局は生き長らえている。その経過・過程になど、一片の意味もない。そして、こうして生き延びた事に感謝もなければ、死に切れなかった事に後悔もなかった。それさえも、彼にとっては如何でも良い事であったから。
「この街にはテクノロマイティ・レガシーが、いくつか残ってますのよ」
 一体、女性が何を言いたいのかはわからなかった。聞きたいとは思わなかったが、聞きたくないとも思わなかった。だから、黙っていた。耳を傾けるのでもなく、音が鼓膜を震わせるのに抗わずにいただけ。如何でも良い事であったから。
「この建物も、昔は病院でして、この地下に『剣聖蜂起の世界大戦』の折に破壊されずに残った医療機械が、所狭しと並んでいますのよ。ですから、血液の補充――医療用語では『輸血』と言うのですけど、それもできましたの」
 どうやら――尾羽張が自分の傷の完治に不思議がっていると思ったのだろう。女性はそうやって説明してくれた。
 当の尾羽張はと言うと、ただ聴くだけで何の返答もない。
 部屋をグルリと一瞥する。女性の姿はなく、どうやら一つ続きになっているキッチンにいるのだと知れた。
「それと、傷の治療は、この三津草の街にいらっしゃいます『剣聖』の方にしていただきましたの。傷口、もうすっかり良くなっていますでしょう?」
 それから、暫しの静寂。帰って来たのは、女性の少し残念そうな声だ。
「驚か……ないのですね?」
 如何でも良い事だからな、と。尾羽張は胸中で呟き返した。その行為さえ、如何でも良い事で億劫だったが。
「別にわたくしも、それが目的でお話しているわけでもございませんから、問題も無いのですけど……そうそう、よろしければお夕飯、ご一緒にいかがですか?」
 そう言って、キッチンと尾羽張が居る部屋とを別け隔てる壁の裏から、ヒョイと顔を覗かせる。
 身長は、尾羽張よりも低い。しかし、それは到って標準的な身長の釣合い。セミ・ロングの黒髪は、夕陽に映えて美しく色艶を揺らす。色白な肌は陶器のようになめらかで、雪のように美しく、評するならば氷肌玉骨。身も心も吸い込む黒き瞳はオブシダンの如く。
 雅やかな容貌は大和撫子然としており、艶やかな微笑みの表情は一笑千金に値する。
 それを無駄なく的確に称するならば、単純に一つ。「黒髪の絶世の美女」と言った所だろう。
 女性の顔を見た瞬間、尾羽張は我が目を疑った。それは、女性の美しさが原因ではなかった。原因があるとすれば、それは尾羽張の方にあるのだろう。
「姉……さん……」
 呟いてから、次の瞬間、尾羽張は女性に重なった姉の姿を振り払った。
 何故か……本当にその原因が解からなかったが、女性が一瞬、萩利の姉、尾羽張磨夜に見えたのだ。
 改めて見れば、似ていない。顔の形、目の大きさ、髪の黒さ。全てが全く違うとは言わなくても、その全てを総合すれば、おおよそ似つかない二人の顔が、不思議と重なったのだ。
「……はい?」
 小さく呟かれた尾羽張の言葉に、女性はキョトンとした表情で首を傾げた。
 尾羽張はそんな彼女に、「いや、こっちの話だ……」と、誤魔化すようにして、いつもの気怠げな口調に戻る。それから、「貰おうか……」と、取り繕うようにして続けた。
(どうか……してるな……)
 一瞬だけ。自嘲気味に笑みを零す。
(なんで、姉貴に……見えたのかな……)
 疑念を抱いた次の瞬間には、またいつもの――七年間、数えるのも嫌になるくらい幾度となく辿り着いた――結論に達していた。
(如何でも良い事……だな)
 蒲団を振り払い、ベッドの縁に腰を掛ける。いつもの履き慣れたブーツを手早く履く。少し重いのは、靴底に薄い鋼板――その裏に細かく並ぶ突起は、滑り止めと攻撃力増強を兼ねている――を仕込んであるからだ。
 体を包む服が、いつもの血に塗られた装束ではなく、青を基調とした真新しい服装に代わっていたが、如何でも良い事だと無視する事にした。
 暖かな香りが強くなり、二人分のシチューとコップに満たされた水を盆に乗せた女性が姿を現わす。浮き世から遠く離れた美女であるにも関わらず、家庭的なおさんどん姿もまた板に付いているから不思議だ。まァ、尾羽張にしてみれば、それもまた如何でも良い事だったが。
「どうぞ。お口に合えばよろしいのですけど」
 ベッドの隣のテーブルに、コトリと陶器の乾いた音が鳴る。テーブルには、赤と白のチェック模様を持つテーブル・クロスが掛かっている。
 勧められた椅子に黙って腰を掛け、女性に倣うようにして少し早目の夕食を取る。朝食も昼食も取っていないから、空腹には違いなかったが。
 暫し続く無言の時に、女性の小鳥のような美しい声。
「いかがですか?お味の方は」
 正直、自信はあった。だからと言って、それが万民に対して平等に満足されると思える程、彼女は自分の料理の腕を過大評価していない。もしも満足してもらえなかったら……どうすると言う訳でもないのだが。やはり、尾羽張の感想が気になるのであろう。
 尾羽張は尾羽張で、問われて初めて、自分が食事をしているという意識を自認した。それまではただ、体を動かすのに必要なエネルギーを摂取しているだけであった。それはまるで、ロボットが供給される電力を必要なだけ蓄えているようにも思えた。
 それが疑問なく続けられた彼の七年間の行為であったから。
「美味しく……ありません……?」
 自信なさげに尋ねる女性に、尾羽張は返事を返さなかった。返事をする事なぞ、如何でも良いと思ったから。そしてそのシチューが美味いのか不味いのか――判断すべき要素がどこにあるのか、彼が忘れてしまっていたから。
 返らぬ返事を待つ時間が、非常に息苦しくて、女性は話題を変えた。ついで、と言うわけでもないだろうが、表情も笑顔に変えて。
「そう言えば、自己紹介がまだでしたわよね。わたくし、伊真沙梛と申します。貴男は?」
 沈黙。尋ねた時の笑顔のまま、女性は――自己紹介によれば、伊真と言うらしいが――表情を凍りつかせた。もしも返事が返ってこなかったらどうしようか?と、そんな不安が彼女の胸に去来していた。
 行なっていたエネルギー補給の一瞬の合間を縫って、尾羽張はポツリと呟いた。
「尾羽張……萩利だ……」
 その一言だけを吐き出すなり、何事も無かったかのように、再度エネルギー補給を繰り返す。
「尾羽張さん……ですか。良いお名前ですね。その、少し……変わっていますけど」
 伊真はそう、自分自身の事を棚に上げて応えた。尾羽張が何も返そうとしないのを数秒だけ確認し、彼女はもう一つ、疑問を口から零した。
「あの、尾羽張さんは、どうしてあのような所で……?」
 別に――聞こえなかったわけではない。だからと言って答える必要もない。如何でも良い事だ。尾羽張はやはり、沈黙を破ろうとはしなかった。
「あ、いえ、別にお話したくありませんのでしたら、無理にお話して下さいませんでも良いのですよ。気を悪くなさったのでしたら、申し訳ありません」
 尾羽張の沈黙を、彼女なりに解釈して慌ててそう返した。
 尾羽張からは何も語ろうとはしない。伊真から話を振っても、返事は返らない。何となく微妙な雰囲気ではあったが、伊真は早くも尾羽張の性格を把握したのだろう、寂しそうではあったが、小さく「まァ、仕方ありませんね」と呟き、沈黙に身を任せる事にした。誠もって出来た女性だ。
 静かな食事の時間を、二人がほぼ同時に終わらせる。
 伊真が手を合わせ、無言で「ご馳走様」をする。尾羽張はそれには倣うような事もせず、スプーンを皿に残して、一言。
「世話になったな」
 椅子を下げ、立ち上がる。
「あの?どうなさったのですか?」
 伊真は、立ち去ろうとする尾羽張の手首を掴んだ。
 手首を掴む彼女の腕は余りに華奢で、柔らかかった。直接感じられる温もりは、『人』や『女性』として以上に、『母』を感じさせた。もっとも――当然と言うべきか、やはりと言うべきか――尾羽張には、如何でも良い事であった。
 伊真の――振り払えば破けてしまいそうな若葉のような――掌を乱暴に振り払うと、尾羽張は
「言葉通りだ。ここに、用は無い」
 と、言い放った。
「そのような事おっしゃらずに、もう暫くここで療養なさった方が」
「必要ない」
 伊真の言葉を、尾羽張は一言のもと振り払う。先程彼女の手を振り払った時よりも、その対応は乱暴であった。
 伊真には背を、部屋の出入り口には正面を向け、黙って歩き出す。
 しかし、僅か一歩の歩を進めた時、不意に襲いかかる立ち眩みに、尾羽張の足元が一瞬ふらついた。
「ほら、尾羽張さん。傷口とかは塞がりましても、憔悴しきった体力とか、血の巡りとかはそうそう回復致しませんのよ?それに、今まで随分とご無理をなさっていらしたのでしょう?体中に疲れが溜まっていますわよ?」
 慌てて尾羽張に歩み寄り、手を貸そうとした。尾羽張はそれを振り払おうとはしなかったが、進んでその手を借りようともしなかった。
「わたくしだって、乗りかかった船ですもの、怪我人を放っておくのは後味が悪いのですよ」
「だから……どうした?」
 如何でも良い事だ。自分自身の事でさえ関心を持てないでいるのに、他人の事にまで気をつかってやれる程、尾羽張の心にはゆとりがない。
「『どうした』って……尾羽張さんご自身のお身体なのですよ?」
「如何でも……良い事だ……」
 呟き放った言葉には、自身の命に対する無関心さが溢れて取れた。
「『如何でも良い事』なわけがございません!!一度きりの人生なのですよ?!もしも今、充分な療養をお取りになりませんと!!」
「……取らないと……?」
 口調を深刻にし、言葉を切った伊真を振り返り、尾羽張は続きを待った。おおかたの予想はついている。
 「命に関わる」などと言う、――尾羽張にとって――陳腐で、如何でも良い言葉であろう。自分だけではなく、他人に対しても、命と言う物の存在意義を失った人間には、およそ縁遠い脅し文句が関の山だろうと。
 だが……
 予想に反して、伊真はスプーンを持って尾羽張をジト目で睨み付けてきた。彼女が手にしたスプーンは、あろう事か、尾羽張がシチューを食す時に用いた物であった。
 彼女は、そのまま姿勢を崩さずに言葉を紡いだ。
「これで……尾羽張さんと間接キス……しちゃいますよ……」
 一瞬――全てに無関心を貫いていた尾羽張の顔に、表情が浮かんだ。何かを嫌悪した、引き攣った表情だった。
 どうにかその表情を抑え込み、彼は気丈にも「勝手にしろ」と返した。
 しかし――伊真の方が一枚上手へいっていた事が、すぐに明らかになった。
「それだけではありませんよ。お皿に残っていますシチューの残りだって、舐め尽くしてしまいますわよ……。そりゃもうベロベロと。顔をお皿に突っ込んで、鼻の頭にシチューがくっ付いちゃうかもしれませんのよ……」
 右手にスプーン、左手に皿。共に尾羽張が使用していた食器だ。それを持ちながら、ひたすらにジト眼を向ける伊真の脅し文句に、深い生理的嫌悪感を覚え……
 尾羽張は折れた。辛うじて「八首魁のヤツらがこの街にいる可能性もあるのだから、ここを拠点にするのも悪くは無いだろう」と言う理由でこじつけてはみたものの、これまでの七年間、慢性的に全身を覆った脱力感とはまた違った脱力感を上着に着込み。伊真に対する認識を改めて。大人しく、ベッドの上に横になる。
「どうにも……調子の狂う女だ……」
 それが、伊真に対する新しい認識だった。

to be continued...

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