涙……

 香奈の弔いの儀の翌日。外は日の光に照らされ明るかったが、結局一晩中降り続いた雪は、この田舎町を白銀の敷布で埋め尽くした。
 玲は、主を失い文字通り生気を失った少女の部屋で、呆けていた。朝早く、由直瀬の家を訪れてから、彼は殆どの時間を香奈のベッドの縁に腰を下ろしたまま過ごしていた。
 元々は曽祖父の部屋であったらしい年季の入った広い部屋は、今ではすっかり香奈の色に染まっていた。
 去年の香奈の誕生日に買ってやった、ピンクの熊のヌイグルミ。一緒にライブにも出掛けた、大好きだったアーティストのポスター。玲が高一の頃に、一緒に選んだ水色のカーテン。少女漫画と参考書が、背の順に並ぶ本棚。幼い時分に隠れんぼでよく使った、観音開きの木造洋服ダンス。
 勉強机の上には、色褪せた写真。アミューズメントパークに行った時に、父に撮ってもらった写真だ。一生残ると思うと気恥ずかしくて、逃げようとしたのを捕まえられた瞬間の、一番恥ずかしい写真。確か、高ニの春だったか……。香奈と一緒に乗った乗り物は、今でもはっきりと覚えている。
 隣には、アクセサリーを詰めたオルゴール。玲が小学校の図工の時間に作った物を香奈にプレゼントした物。あの時、香奈のヤツ、泣きながら「ありがとう」って言ってたっけ……。
 部屋にある品物から二人の思い出が無い物を探す方が難しかった。どれもこれもが、目に触れる度に沢山の思い出となって溢れ返る。喜んだ事。怒った事。哀しかった事。楽しかった事。
 思い出が一つ心の中に蘇るたびに……心が、痛んだ。香奈との思い出は、もう、思い出す事しか出来ない。どんなに望んでも、作り出す事は出来ない。
 それを噛み締めるたびに、心が哀しみで痛んだ。
 だが……。
「何でだよ……」
 ボソリ……。玲は、呟いた。返るはずの無い答えを期待して。勿論――返るはずは無かった。
「そんなモンなのかよ……オレの、香奈への思いってヤツは……」
 俯き、震える声で呟く。体を戦慄わななかせ、唇を噛み締め、今にも泣き出しそうな――しかし、決して涙を見せない――子供のような表情で。
 認めたくなかった。自分の香奈への想いが、その程度だなんて。十七年の時を共に過ごした少女への想いを否定しそうな自分自身がひどく頼りなくて――望んでいた。切実に。自分のこの想いを証明してくれる、何かを――。
 顔を伏せ、自己に対する嫌悪感で潰れてしまいそうになった時……
――ソノ望ミ 叶ヘテヤロウカ?
 声が聞こえた。しゃがれているような……しかし、よく響くような。高いようでいて、低いような。男の声にも聞こえると同時に女の声にも聞こえ、その反面、どちらにも聞こえない。鮮明に聞こえるはずなのに、どこか朧な。一つはっきりと言えるのは、その声が不気味だと言う事。
 不気味なその声に驚き、顔を上げる。そして、彼は見た。
――望ムナラバ 拒ミハセヌ
――否ムナラバ 逃ガシハセヌ
――我レ 糧トナロウ
――汝レ 贄トナレ
 それは、別に言う程の形を成しているわけではなかった。それはただの、〃扉〃でしかないのだ――。



 ケホ、ケホ、と。小さく咳き込む。
 左手で厚手のコートの首元をしっかりと閉じながら、使い古した靴を脱ぐ。
 玄関に、靴を乱雑に残して上がり込む。足を通してみ入るフローリングの冷たさが、否応無く歩速を高めてくれた。
 玄関を上がるとすぐに、左手に三歩程度の奥行きを持つ小さなT字路――突き当たりの扉は、お手洗いだ――。右手には、客間と隔てる襖がある。
 それから二歩ほど前に進めば、納戸なんどがある。さらに4歩進めると、そこで行き止まる。そこには、左手に二階へ上がる階段と、右手に居間と隔てるちょっぴり豪華な曇りガラスの扉とがある。
 彼は、迷う事なく扉を押して居間へと入る。
 廊下の寒さと居間の暖かさが微妙に交わるのを肌に感じながら、彼は居間の中を一瞥くれる。
「遅いわよ。呼んだら10分で来なさい」
 いきなり理不尽な叱咤の言葉。炬燵こたつに入ってソファーに凭れ、蜜柑みかんの皮剥きテレビに向かう。冬の贅沢の粋を極めてグータラとするのは、鈴木咲良その人だった。
 咲良の正面、テレビに背を向けて炬燵に、頭を預けて幸せそうに寝入る鈴木良の姿も見て取れる。
「やかましい。どっかの誰かさんのせいで肺炎になりかけた上にまだ首の調子が悪いこの繊細な体を押して来てやったんだ。ガタガタと文句を言われる筋合いがあってたまるか」
 目線の高さと悪さが相俟あいまって、見下すようにして稲村が言う。一週間前のアレを思い出して、忌々しげに。
 ここは、鈴木宅。鈴木と稲村が小学校四年生の時に一度立て直した、決して大きくはないが快適な生活空間。稲村がここを訪れたのは、咲良に電話で呼び出されたから。「もうすぐ夕飯よ。早く来なさい」と一方的に。
 稲村は、朝・昼・晩と、在宅時はいつもここで食事を馳走になっている。隣接の一軒家に住むと言う気安さもあるが、鈴木の両親が「一人の食事は寂しいでしょ?」と、気遣ってくれるから。好意に甘えてご相伴しょうばんに預かる事にしていた。稲村の両親が、十年前に他界して以来、ずっと……。
 鈴木の両親は、何度か養子に来ないか?と誘ったが、稲村は頑としてそれを断った。「稲村」の姓は、自分が父と母の子であると言う証。稲村の家は、両親の匂いが残る大切な遺産。彼は、「稲村」である事を誇りに思っているから。鈴木家の優しさに甘えるわけにはいかなかった――「鈴木」を名乗ってしまうと、自分が「稲村」の思い出を無くしてしまいそうで、不安だったから――。形だけ、北海道に住む親戚に、保護者としての名前を借りてはいるが。
「ま、どうでも良いケドね。……早く閉めてよ。寒いじゃない」
「……こんのアマ……」
「四の五の言う前にチャッチャと閉める。いつも言ってるでしょ?やりっぱなしは駄目だって。それをアンタときたら、いつもいつも開けたら開けっぱなし。閉めたら閉めっぱなし」
「……一体俺に何を求めてンな言葉をホザきよる?」
 嫌がらせに開けっ放してやろうか?とも思ったが、彼自身が寒さを不得手とする為、やめた。バタンと音を立てて、後ろ手に扉を閉めた。
 それを確認してから、咲良は答えた。
「帰れ」
「呼んだのが誰だコラ?!咲良だろうが!!マジ殺すぞ?!」
「目上を呼び捨てにしないっていつも言ってるでしょうが!!殺し返すわよこのクソガキ!!」
 一触即発……と言うか、既に導火線に火が付いて爆発は火を見るより明らかな喧嘩腰ムードの間に割って入るのは、
 ヒュン!!と言う空気を切り裂く音だった。続き、ドッ!と言う音が突き刺さったのを、二人は聞き逃せずにいられなかった。
 硬直した二人。恐る恐るに音へと辿れば、炬燵の上に突き立つ出刃包丁。ダラける良の眼前に、切っ先を突き立て刃を光らせる。
「喧嘩をするなっていつも言ってるだろう?何かの拍子で頭をぶつけるかもしれない。当たり所が悪ければそれだけでも危険だし、何より包丁が飛び出す事だってあるんだよ?」
 普通は無い。三人のぎこちない突っ込みは、結局言葉を成さなかった。
「晃司君も男の子なんだから、女の子に手を上げない。咲良は女の子なんだら、喧嘩なんかしてんじゃない。――解かった?」
 カウンターのようにしてり抜いた壁の向こうに、直接台所が見える。声の主は、その台所で陣取る鈴木慧子けいこ。鈴木家の主婦である。
「はい……」
 稲村と咲良は、慧子の言葉に冷や汗混じりの返事を重ねた。
 直面した死にビクつきながらも炬燵に入ろうとした稲村だったが、スックと立ち上がる咲良に呼ばれた。
「冗談はさて置き、晃司。話があるの。ちょっと私の部屋まで来て頂戴」
 稲村は一瞬「?」と訝んだが、言われるままに再度腰を上げた。
「どしたの二人で?何の話?愛の語らい?」


「10分くらいで御飯だから、勝手に降りてきなさいよ〜」
 二階の咲良の部屋に上り行く二人は、解かったと言う異句同意に返事を返した。
「しっかしさぁ」
 視線を居間の炬燵の上へと移して呟いた。
「好い加減、懲りないのかしらねェ?良?」
 殴られ、蹴られ、極められ、締められ。僅か一分で襤褸ボロ雑巾にされた愛息に、愛想を尽かせて呟いた。
 ――口は災いの元――。


「んで?話ってのは?」
 咲良の部屋。見た目よりも使い勝手の良さ――と値段の手頃さ――を追求した結果、"女の子らしさ"に若干欠ける印象を受ける。それでも、カーテンやマットの全体的な色取りカラーリング、几帳面な整然さ、人形などの強調する小道具アクセント・アイテムが、"いかにも"感を手放さない。
 稲村は、ミニコンポの上にちょこんと座るスマートな黒猫――明日になったら白猫になっていると思う、某宅配便少女の使い魔のキャラ人形だ――を引っ掴んで、部屋の真ん中で膝立ちになりながら、咲良に訊ねた。
 咲良は部屋に入るなり、「寒い寒い」と蒲団の中に潜り込んだ。石油ファンヒーターがあるが、すぐに夕飯で一階に戻る事が解かって入るため、着けない事にした。
「水島君の事なんだけどさ。……誰かから聞いた?」
 蒲団から顔だけを出して咲良が聞いた。
 稲村は黒猫をモコモコといじくりながら――手触りが妙に落ち着くらしい――、少しの間だけ考えて。
「何を?」
 否定の意を込め、逆に質問を返す。
「やっぱりね……。ま、私も今日聞いたばかりだから、アンタの事をどーだこーだと言えた義理でもないけどさ……。いなくなったらしいわよ」
 ブチブチと呟いた後、唐突に、そして端的に本筋を話した。
 稲村が黙しているのは、先を促す為と転化した本筋がうまく噛み合わなかったのが半分半分。
「香奈ちゃんのお葬式の次の日。香奈ちゃんの部屋に入ったのを由直瀬のオバ様が確認したのを最期にプッツリと。今日まで五日間、何の音沙汰も無し」
 次は、簡潔に。必要な事は最低限、余分な事は全て省いて説明した。
 咲良の説明に、一瞬だけ考えるような振りを見せてから、
「下宿に帰ったンじゃねェのか?」
 と、稲村は言う。だが、咲良は首を横に振って、その案に否を示す。
「親に黙って?水島君がそんな子だと思う?」
「……思えねェな。アイツは奇特な程に律儀だったからな。帰る時ゃ、わざわざ俺にまで一言入れてたしよ」
 夏期と冬期の長期休校の終盤の頃を思い返せば、お説ごもっともだ。稲村は首裏をガリガリと乱暴に掻き乱し、自分もその案を却下した。
「それに水島君のオジ様もオバ様も、初めはそう思って、真っ先に下宿に電話を入れたそうよ?この五日間、何度もね」
 そこで言葉を区切ったが、玲が電話に出なかったと言うのは、わざわざ言わなくても理解出来る。
「携帯は?」
「不通」
 即答だった。
「……単なる傷心旅行」
「御両親に黙って?昨今の若い連中ならいざ知らず、あの水島君が御両親に心配を掛ける事は瞭然なのに、黙って旅に出たりするかしら?」
 言われ、稲村は黙ってまた、首裏の髪を混ぜっ返した。
 そして、一言呟いた。
「しねェな」
 今時珍しいほどの"優等生"。努力を怠らず、義務を全うし、感謝の気持ちは忘れない。そんな彼が、親の心労を増やすような真似をするはずが無い。深くはない間柄ながらも、長い付き合いだ。玲の事は、その程度には知っているつもりだった。
「そ・こ・で。晃司の出番なのよ〜〜」
 しな垂れるような甘い猫撫で声を、稲村は「気色悪い」と吐いて捨てた。
 咲良は、少し憮然としたきらいを見せた。
「水島君、探して頂戴」
「自分でやれ」
 にべにも無い……。
「私はアンタと違って仕事が忙しいのよ。大体、探せる物なら自分なりに探してるわよ」
「俺だって試験も近くて忙しいよ」
「良と違って、どうせ一夜漬けでしょ?関係無いジャン」
 正しくその通り。反論する余地が無いほどの正論だ。だからと言って、引き下がるような稲村でもなかったが。
「俺に、探偵の物真似ができると思っているのか?」
「思ってるワケないでしょ」
 即答されると、それはそれでムカツク。唸るように咲良を睨み付けたが、負け犬の遠吠えのようで悔しかったのでやめた。
「大体、人探しなら俺じゃなくて警察ポリに頼めよ。税金食い潰しながら正義の旗印に叛旗はんきひるがえす公的団体が役立つ機会チャンスなんてこんな時程度だろ?」
「あんなゴク潰しどもにどーこー出来るような事件ことだったら、最初ハナからアンタなんかに頼んだりしないわよ!!」
 吐き捨てるようにして言い放つ。いつものように「言い過ぎよ」と反意で返されると思っていただけに、憎しみのこもった同意の唾棄に、稲村は一瞬面食らった。
「……どうした?何かあったのか?」
「どうもこうも……聞いてよ!!晃司!!」
「イヤだ」


「聞いた話なんだけどさ」
 跳ね飛ばした厚手の掛け布団を丁寧に直してくるまりながら話す咲良。対する稲村は、「オウ」と歯の根の噛み合わせの悪さに違和感を覚えながら言葉少なに返していた。
 左頬にくっきりと残る拳骨のあとさすると、妙に熱くて表情を顰める。
「水島君のオバ様さ。今日、捜索願を出しに行ったそうなのよ。事情を話して、早く玲を探して下さいって。そしたらさ、応対に出た若い警官の兄ちゃん、何て言ったと思う?」
 仏頂面のまま、黙って首を横に振った。本当は「知るか」と一言の合いの手でも入れてやりたかったのだが、満面の笑顔で話す咲良の顔を見ていると、その気も失せた。血の気と一緒に。
 目が、笑っていない。怒りが、破裂する前兆。下手に刺激すれば、とばっちりで半殺されかねない状況だった。
 咲良は目だけが据わった笑顔のまま、話しを続けた。
「そいつさ。こう言ったらしいのよ。『お子さん、大学生でしょ?一週間やそこらくらい、親に黙って外出する事くらいありますよ。たかがお子さん一人に対して、ちょっと過保護すぎやしませんか?』って」
「……そりゃァ、ひでェな……」
 咲良が言葉を切ったので、慌てて相槌を返す。黙っていると、「話しを聞け!!」と物が飛んできかねない。
「しかも、そいつさらに何て言ったと思う?『警察は、事件が起きてからしか動かないモンなんですよ。お子さんの死体ホトケさんが見付かったら、動いてあげますよ』ですって。水島君のオバ様、流石にそれには絶句したそうよ」
 天井を見上げ、深い息を吐き捨てた。
「何でこう、最近の若者はドラマや漫画の悪い所だけを取捨選択して影響を受けるの?」
「いや……俺に言われても……」
 笑顔の真ん中で据わった瞳の剣呑さに気圧けおされて、思わずジリ……と後退あとずさる。
「アンタにとっちゃ"たかが一人"でも、親にとっては"たった一人"だって、どうして解からないの?」
「だから、俺に聞かれても……」
 ガバッと蒲団を退けるなり、這い出てマットの上に素早く座った。稲村は……身の危険を間近に捕えたような気がして、腰を浮かせた。
「水島君のオバ様さ、流石に絶句したらしいわよ」
 四ツん這いになってにじみ来る咲良に恐怖する。昔、何かの映画で上下の半身をわかたれた生ける屍ソンビー――だったか何だったか……――の上半身が、両手だけで這いずる場面シーンがあったが……。半眼の笑顔の咲良に比べれば、なんて可愛い物かと本気で思った。だから、「それ、さっき聞いた……」と言うツッコミも入れるのがはばかられた。
 眼前まで寄り来た咲良は、膝立ちになって稲村の襟首を両手に掛けた。
「アンタのニの句が二度と繋げないように、命の鼓動を絶やしてやろうか?!」
「俺に当たるなよ……」
 語気を荒げながらもやはり笑顔の咲良の両手に力が入るのが解かった。ツツ……と流れる汗が冷や汗だと、それも解かった。
「社会的地位にある人間として、発言に責任って物を多少なりとも持つべきじゃないの?!」
「その通り……だが……」
「どうしてアンタ達はそう、人の心を踏みにじるような言葉を平気で形作れるの?!」
「だぁら……俺に……あだるだ……」
「親を大事に想う心があれば!!子を想う親の気持ちも解かるはずでしょう?!どうしてそれが解かんないのよ!!?!」
 首を絞められたまま、前へ後ろへカクンカクン。その都度洩れ出る「グェ〜〜」と言う、踏み潰された蛙の泣き声にも似た呻き声。
 我を忘れる、と言うのだろう。その声に暫し気付かなかったのは。
「ア……ゴメン……」
 絞首の断罪から慌てて稲村を解放し、しおらしい謝罪の言葉で気持ちを曝した。
 稲村は「気にするな」と必死に酸素を欲しながら言葉にする。しかし胸中では別の事を思う。
(いつか絶対ぜってェ寝首掻いちゃる……)
 と。
「んで?水島のおばさんは、その時どうしたんだ?」
「ん?ああ。怒りのあまり怒りを忘れて、その場は黙って引き下がったらしいの。家に帰ってからようやく、何を怒ればいいのか気が付いたらしいわよ。涙が出るほどに」
 のろのろと、再度ベッドの中に潜り込みながら。最期にポツリと呟いた。
「その警官マッポ、絶対殺す」
「……の前に、俺が死ねる」
 られる前にったろうか?などと思ったが、危険な案だと思って自粛した。返り討ち じ ぶ ん が。
「随分と話が反れたケド……。つまり、そーゆーワケ」
「どーゆー?」
 抑揚もなく返す。確かに……今までの話の流では、解かる事などあった物ではない。
「だ〜か〜ら〜。警察にどうこう出来る事や、アンタにどうにも出来ない事を頼むワケないでしょ?」
 呆れ果てて何も言えないと言わんばかりに。咲良は大仰に、芝居がけた言葉を吐き出した。
「行って欲しいのよ。〃世界〃に」
 「〃世界〃」……。その言葉に、稲村は確かな反応を示した。どこか楽しそうに、しかしどこか切なそうに。――〃世界〃とは、そう言う場処だから。
 だが次の瞬間には、眉根を寄せて疑わしげに。見やる咲良に言いたいのは、一言「眉唾」だとでも言う言葉だろう
「……何故?」
「だから、アンタにしか」
「そうじゃなくて」
 答える言葉を遮った。
 一瞬の静寂を確かめ、稲村は言いたい事を言葉に選び、的確に伝えた。
「どうして、水島が〃世界〃にいると断言できる?」
 回答は……ただ、静けさだった。問われて初めて、咲良は不思議を感じた。
「見たのか?ンなワケねェよな?お前は〃鍵師〃じゃない。しんば見えたとしたら、奴が行方をくらませた時にいの一番に俺を引っ張り出したはずだろ?だったら、聴いたのか?触れたのか?嗅いだのか?味わったのか?どれも違うだろう?――以下同文で」
 くし立てると言うふうでもなく、さりとて諭し聞かせると言うふうでもない。そんな稲村の言葉をどこか上の空で耳に残しながら、咲良は考えた。
 ……何故?どこかにあるはずだった。明確な理由が。確信させる物証ではなく、直感させる予感が。
 思い出を掘り返すスコップは、地表を少し返しただけで何か固い物を掘り当てた。
 覗けばそれは、あまりに明確な記憶としてよみがえる。
――強い……ね……
――私は、そうは思わないな……
――痛々しいの。触れるだけで、音も無く散々れてしまいそうな程さ。儚く、脆く
 どこか虚ろだった視界を、今は現実に揃えて。
 沈黙が降りていた。咲良の返答を黙って待つ稲村に、視線を合わせて呟いた。小さくだが、明確に。
「感じたから」
 一秒より少しだけ長く破られた沈黙。稲村は、顎をしゃくって沈黙のままに先を促す。
「水島君の望みを。理由なんて解からない。望みそれが何かなんて解からない。それでも、ガラス細工の白鳥のように脆い心が、見えない何かを切望するように……。そう、感じたから」
「話にならん」
 どこか思い詰めた咲良の言葉を、たった一言で一蹴くれる。取り付く島もにべにも無く、ましてや同情なんざ欠片も無い。
「そんな理由で当てもなくやってられるか。言ったように、試験も間近に迫ってんだ」
「だから、どうせ勉強なんて一夜漬けでしょ?受験勉強でさえ一週間漬けだったじゃない」
 それはそれで凄い。
「――もしかしたら、勉強するかもしれねェだろ?」
「んな不確か確率を想定に入れるのは愚の骨頂だと思うわよ?」
「だったら、お前の"直感"の方だって充分に不確かじゃねェか。しかも、無報酬だろ?どうせ」
「アンタは。友達でしょ?友情――はアンタにゃ無いでしょうケド、同情くらいしてやっても良いんじゃないの?!」
「それこそ、そんな不確かな物の為に時間を潰してやる義理は無い」
 咲良の言葉に、稲村は全く取り合う様子はない。全てにNOの一点張り。
「だったら、確かな『物』で言う事きかせてやろうかしら?ついでに『報酬』も払ってやるわ」
 拳を固め、視線に険を埋めて言い放つ。
「ほう?どんだけ確かな『物』なんだ?ンで、『報酬』は何だ?」
 ボキ、ボキと指を鳴らして、剣呑さでは引けを取らない稲村も、臨戦体勢に入った。
「『物』は力の上下関係で、『報酬』は命よ」
「できるモンならやってみやがれ!!」
 カ〜〜ンと、聞こえるはずのないゴングが。二人の耳に確かに響いた。


「ギブギブギブギブギブギブギブギブギブギブギブギブギブギブギブギブギブギブ!!!!!!!!」
 マットをバンバンと乱暴に叩き、稲村が叫んだ。
「どうする?やってくれる?」
「解かった!!やってやるよ!!」
 外から見れば、仰向けに倒れる稲村の頭を全身で包んでやっているようにも見える。
 それだけを聞くと「なんて羨ましい……」と思う輩もいるかもしれない。だが、仰向けに倒れる稲村の前頭部と後頭部は咲良の両膝によって、強烈に絞め付けられる。さらに稲村の左脇下に廻した右腕を強引に引き込み、思い切り首を捻り上げていた。
 プロレスの「クロック・ヘッド・シザーズ」の変形。見様見真似でやってみたら「なんだか違うわね?」と、自分なりに変形アレンジしてみました。
 どちらにせよ、首を捻られて激痛には違いない。一週間前の「天狗勝」の痛みも完全には引いていない為、それもまた一入ひとしお。無理に抜け出そうとすれば、かえって首を捻る結果が見える為、それも出来ない。
「やってやる、ですって?」
 稲村の言葉を聞き咎めると「もう一回転」と、腰を軽く浮かせて膝を捻った。
「アウギヤアアアアァァァァァァ!!!!!!!!てめェ!!今すぐやめねェとマジ殺すぞコラァ!!」
「もう一回イっとく?」
「アタタタタタタタタタタタタ!!ゴメンなさい!!やらせていただきます!!そりゃもう喜んで!!」
 漸く弱音を吐いた瞬間、誰かが扉を無作法に開けた音がした。
「そろそろ御飯なんだけど。……誰?武論尊ぶろんそんごっこしてるのは?稲村?」
 場違いな間抜けた御意見。ヒョイと顔見せするのは鈴木良だった。
 彼は、二人の状態を見るなり言った、
「何?!二人でそんなアブない火遊びをして?!」
「「待てコラ」」
 二人の言葉が見事に重なる。
「稲村が受けだなんて……。僕の事を攻めてよう〜〜」
「黙れこのホモ野郎!!」
 背筋にゾッとする悪寒を感じた瞬間、痛みよりも先にそう口走っていた。
「御姉は僕が攻めたげる」
「息の根止められたいのこのシスコン?!」
 勢い、立ち上がる。瞬間、クキ、と。イイ音がした。
 無言でゴロゴロとマットの上を転がり回る稲村に、一言「ゴメン」と呟いた。
「もう、二人して僕のイメージにそぐわない受け攻めしちゃって。失礼だよ」
「「マジ殺されたくなかったら、その腐った口を今すぐ閉じろ!!この両刀使いが!!」」
 長い台詞が見事にハモるのは、ひとえに「習慣」の賜物だろう。
「なんだよ。悪いのかよ。そう言う差別はいけないと思うんだ」
 口を尖らせた。
「黙れ。少なくてもホモに人権与えるつもりはサラサラに無い。両刀使いなんてどっち付かずは尚更だ」
 首の痛さを気力でカバーし、稲村は言う。
「何だよ。言っとくけどさ、両刀使いは諺でも持てはやされているんだぞ?!」
「……ほう?どんな?」
 次の発言の予想は付かなかったが――稲村と咲良は、殆ど本能的に拳を固めていた。
 そして、待った。自分達が行動に移すその瞬間を。
 鈴木がニンマリと笑って言った。
「文武両刀」


「やっぱり冬は鍋よね。ホラ、晃司。お肉ばかり食べないで。野菜も食べなさい」
 煮える鍋に箸を突っ込み肉をあさる。そんな稲村をはしたないと咎めながら、咲良は彼を叱咤する。
「煩ェな。文句があるなら黙らせてやろうか?」
「食事中にやったら、母さん、晃司君刺しちゃうわよ。そりゃもうプスッと素早く。電光石火で」
 危険な発言は、慧子のさらに危険な言葉で乾いた笑いを誘うに終わった。
「ほら、よそってあげたから。全部食べなさい。晃司のノルマよ」
「バカやろう!!他人の箸がついたモンが食えるか!!」
「細かいわねェ。男の子が細かい事気にしてちゃ駄目よ」
「咲良は女の子なんだから。もっと気配りしなきゃ駄目だけどね」
「母さん……」
 和気あいあいとした団欒だんらんの食事。一人では味わえない格別な調味料に、稲村はガラにもなく心の中で感謝していた。
「ところで二人とも」
「「ん?」」
 慧子の言葉に、二人は同時に振り返った。別々に口に食べ物を頬張る二人がなんだかおかしくって。慧子は思わず噴き出しそうになった。我慢出来たが。
「良は?降りて来ないんだけど」
「ああ。鈴木なら、急に頭痛がしてきたって、自分の部屋で寝てる」
「うん。ついでに腹痛も。当分起きないと思うわよ」
 そんな簡単な回答で、大体想像がついた。
「ミイラ取りがミイラに成った――。……違うわね……」
 慧子はボソッと、一言呟いてから。気を取り直して食事に向き直った。
 薄情な親だ。

to be continued...

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