氏の言霊使い

(死んでしまいたい)
 彼女は夜の町で、そう思った。いや、むしろ願った。建物の装飾を成すイルミネイションの群れも、彼女の心の中までは照らしてくれない。
 歩道橋の上。分離帯で別たれた左右合計六車線のアスファルトの川に沿って、車が織り成すテール・ランプの赤色が、今の彼女には酷く陰惨に見えた。それは熱情の赤ではなく、血の池地獄の赤だ。
 制服から察する所、どうやら市内の私立学校の生徒のようだ。白と水色のコントラストは、他校の生徒からも羨望と欲望の眼差しでもって見られる事も暫しにある。
 彼女は一瞬の躊躇いの直後、歩道橋の手摺りに足を掛けた。生気の無い瞳が夜空を見上げる。
 力無く、唇が動いた。ポツリと呟く為だ。その言葉は、かくも辞世の句に聞こえた。
「このまま鳥に成れたら……お父さんとお母さんの所まで飛んで逝けるかな……」
「それは無理だな。残念ながら」
 驚き、そのままの態勢で声の主を探す。
「鳥に成ってしまえば、夜の闇の中を見通せなくなる。良いとこ、迷子の迷子の小鳥ちゃんだ」
 声の主は、程無くして見付かる。いつからそこにいるのか、彼女の背中越し。向かいの手摺に凭れ掛かって、暢気な目付きで彼女を観察していた。年の頃は二十代後半であろうか。草臥れたロング・コートが自然に似合う、無精を背負った長身の青年。
「……止めないで……下さいよ……」
 虚ろな瞳で、力無く彼女は呟いた。車のイグゾーストに負けて、掻き消されてしまいそうな無気力感。
「無茶言わないでくれ。目の前で君を見捨ててしまうと、いくら俺でも寝覚めが悪い。それに、自殺者を見て見ぬ振りをするのも犯罪なんだよ?知ってたかい?」
 青年が、どこかかおどけたふうに肩を竦めた。
「まだまだ人生を謳歌する時間は残ってるってのに、こんな所で臭い飯は食いたくないからさ」
「羨ましい……ですね……」
 少女は言った。青年には、「羨ましい」と言うよりも、「憎らしい」と聞こえたが。
「私には、もう謳歌するだけの人生は残されていないのよ……さようなら」
 見ず知らずの男に言い残し、少女は歩道橋の手摺を蹴った。
 瞳を閉じて――顔を優しく撫でる夜風だけを感じる。心の中には、恐怖は無かった。
 これで、お父さんとお母さんの所に逝ける……。そんな事を考えていたから。
 少女は自分でも驚く程の穏やかさで、来たるべき衝撃を待った。
 僅か数秒の時が流れ、衝撃が襲った。硬く鈍い衝撃。では無く。柔らかな穏やかな衝撃。
 不審に思い、少女は目蓋を開けた。
「やめときなよ。何があったかは知らないけど。折角可愛く生んでもらったんだろ?こんな事で醜く死んでしまう奴があるか?」
 歩道橋の下。中央分離帯の上。落ちた少女の体を、青年が優しく抱きとめていた。月明かりを背負う青年が、穏やかに微笑んでいた。
「位置場渡(いちば わたる)。俺の名前だ。……良い名だろう?『位置』を、そして『場』を。『渡』る男って意味だ」
 どうして?そんな疑問を訴える少女の瞳に向かい、男は名乗った。
「君の名は?」
 少女は、北村と名乗った。
 名前は、教えてはくれなかった。


to be continued...

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