第九章 その恐怖、如何なる者も抗えず...

 科学。人の進化の過程に生まれた、いわば人の持つ数少ない牙。
 初めはただ、起こり得る変化をとらえただけの事実。事実それを整理し易いように数式へと形を変えた理想。
 次第、物理の法則を支配し、それは鉄の塊を空に浮かべ、人を大気の外へと旅立たせ、微視世界ナノ・ワールドへと向ける瞳を授けた。
 人と共に進歩した科学は、人が進化の歩みを止めてからさえ、更に更にと進歩を果たして行った。
 全てを縛り付ける引力を消し去った。人を光の世界へと導いた。無機物に人の感情の機微を与えた。
 あらゆる分野での進歩。医学においては、老人性痴呆症アルツハイマーさえも癒し、失った肉を取り戻す事さえ可能にした。軍事の面では、ただ生命を断つためだけに動き回る、悪魔と見間違みまごう鋼鉄の殺戮者が孵化し、核に代わる安全で且つ清浄クリーンな――且つ、凶悪な――広域殲滅兵器が産み落とされた。
 そんな中で、科学とは相容あいいれない分野や学問もまた、進化を遂げていた。
 心霊学術。科学だけを追い求めていた時代には「非常識」とさげすまれていた学問だ。それは、堅物の科学者達の頭を柔らかくするだけの事実を突き付けて、科学総会に殴り込みをかけた――文字通り、論より証拠、と言う奴だ――。
 それが、『聖剣』であり、『剣聖』であった。
 或る者は伝説に名を連ねる剣を、或る者は神の時代に名を刻む獣を。或る物は太古の遺産であり、或る物はごく身近な時代の創作物。
 人の内につながれ、人の血のちぎりにつむがれる数々の宝具。操る人物ものを『剣聖』と、宿る宝具ものを『聖剣』と、後世のちに人は呼んだ。
 科学の進歩に夢閉ざされた時の科学者達は、一も二も無く『聖剣』と『剣聖』に飛び付いた。その理由は、『聖剣』が持つ「力」だ。
 不可視の「魂」を鞘にする「力」。『剣聖』に潜在する身体的能力を引き出す「力」。それらも確かに魅力の一つではあったが、それよりもさらに解かり易く科学の糧となるであろう人智を超越した「力」に目を付けていた。
 雷を呼ぶ力。炎を起こす力。傷を癒す力。時を操作する力。命を創造する力。物を消滅させる力。次元を断絶する力。物理の法則を超越した力の顕現達。
 科学の先行きに見通しが立たなくなった時代だ。それらの力は、正に垂涎すいぜんの的だった。
 それらの力の解析に成功するまでに流された『剣聖』達の血の量もる事ながら、真理を追求する科学者達の貪欲さも、想像を絶するものがあった。
 時が流れ、それに比例して積み重ねられていく科学者達の努力と、『剣聖』達の血と悲鳴とが、人類に新たなる牙を与えた。それは、科学の進化した形。超科学オーバー・テック
 幾年いくとせとなく続くと思われた科学と超科学の絶頂の時代に、思いがけず訪れる終焉。それはそう、僅かに五十有余年前の事。人類の世代に、一つ二つの世代変更を挟んだ昔の事。
 科学の進化に寄与したのが『聖剣』ならば、科学の時代に終止符を打ったのもまた『聖剣』。
 欧州において被検体サンプルとして囚われていた『剣聖』に宿る『聖剣』――捕われの魔獣《Fenrrirフェンリル》――の暴走を皮切りに、欧米の大都市でも一振りの『聖剣』――北欧に伝わる炎の魔剣《Laevateinレーヴァテイン》――を携える『剣聖』が、科学者達の暴虐に叛旗を翻した。島国日本でも、三本の『聖剣』――鬼斬りの三振りと知られる《童子切安綱どうじきりやすつな》、《鬼切おにきり》、《鬼丸国綱おにまるくにつな》――が、正義の名のもとに聖戦を開いた。
 これら三つの開戦は、ほんの起爆剤にしか過ぎなかった。彼達の後に続くようにして、世界各地で弾け始める『剣聖』の鬱憤と憤懣。そして、爆発する反乱――彼等の暴挙を反乱と呼ぶのは、彼等の力を半ば以上強引に搾取してきた科学者達の言い分だが――。
 乱戦は、何も知らない人々を巻き込み、巻き添えにして広がって行った。
 『剣聖』と科学者。『聖剣』と科学との戦い。『剣聖』がただの一薙ぎにて建物を倒壊させれば、科学者は人の命を余りにも容易たやすく刈り取った。『聖剣』が雷を呼べば、科学が爆発を招き入れる。
 結果は、惨憺さんたんたる現実を残骸に残した痛み別け。核のような物騒な破壊兵器が無かったから、空を、土を、海を汚さずにいてくれたのを不幸中の幸いと呼ぶには、余りにもまわしい戦いだった。
 僅か数ヶ月で、人類は牙をもぎ取られた。
 それでも尚、人は生き続けた。法も秩序も、暴力によってのみ成り立つような、破滅の時間の中を。
 僅かに残った智恵と勇気を振り絞って村を興した者達。運良く残った科学時代の遺産にすがって集まり、街並みを取り戻そうとした者達。
 ここ三津草の街は、そうして興った街の中でも、後者に属していた。優れた医療設備と発電施設とがそのままに、近場には大規模な科学歴史博物館の廃墟と元国立資料館の廃墟。それらが残った。この街は、今伊真の目の前の椅子に陣取る少女――叢雲むらくも薙葉なぎはの祖父が興した街だった。列挙しただけの物が残るこの街には、多くの人々がおのずと集まり、住み着いていった。その数は何と三千人を越す大規模な物だった。
 叢雲薙葉。当年十九歳。性別女。性格男勝り。
 十六歳の頃亡くした父の責務を体に、遺志を魂に継ぎ、若くして総勢五十人強の三津草自警団員を束ねる団長の任に就く。そしてそれは、同時の三千人を超える同街最高権力者の座に就くと言う事と同義であった。
 しかし彼女はそれを傘に着るでもなく、街人達の意見を素直に受け入れ、街人達と共に暮らしている。飽く迄も一市民としてこの街を愛し、一自警団員として街を守り続ける。そんな彼女を街人達は信頼し、期待を寄せ、自警団々長の任を安心して任せている。
 また、信望が厚いだけではなく、剣士としての技量を取っても彼女は三津草一だった。父親・叢雲重吾じゅうごの死を期に魂の内に受け継いだ『聖剣』《天叢雲剣あめのむらくものつるぎ》は鋭くまされ、幼き日から叩き込まれた叢雲古流『聖剣』武術むらくもこりゅうせいけんぶじゅつは洗練された卓越さを持つ。その腕前は、他者の追随を許さない。
 そんな事を、かたわらに腰掛ける八咫と八尺瓊から教えられた。ただ寝台ベッドに寝そべっているだけの尾羽張からは、特に何かを問いただそうとはしていなかったが。
 尾羽張は、両名の説明を聞くとも無しに耳にしながら、叢雲の事をマジマジと見ていた。別に、見惚みとれていた訳ではない。ただ彼女が「叢雲」の末席に名をつらねる者であるから、観察みていただけだ。
 叢雲はと言うと、伊真と対峙たいじするようにして椅子に黙って座っていた。険の取れぬ横顔が、伊真を正面から睨み据えている。笑えば、伊真や八咫にもそうそう見劣りするものでもなさそうなだけに、勿体無い事だ――まァ、尾羽張にとっては、それもまた同じくして如何でも良い事であったが――。
 短めショートに揃えられた黒髪。均整の取れた目鼻立ち。胸部に膨らみの少ない体躯プロポーション。無駄なく引き締まる四肢。少年的ボーイッシュ雑把ラフな服装。見えているのが投影シルエットだけだったとしたらば、間違い無く「少年」と見間違うであろう。それでも尚、彼女は美しい女性としての姿を忘れない。八咫の美をあやしやか、伊真の美をみやびやか、――ここにはいないが――海泥麒の美をはなやかと称するならば、差し詰め叢雲のそれいさみやか。およそ「美」の範疇に無い所で輝く、魂の高潔さから滲む美であろう。
「伊真……」
 沈黙を守った時間は、たっぷり三十分。抑え切れない怒りを鎮めるのに要した時間だ。怒りを隠そうとしない叢雲の正面に座らされた伊真にとって、その三十分は永劫にも思える時間であったろう。針のむしろだ。
「オレは、今までにも、何度も、言ってきたよな?覚えているか?」
 三十分近くの沈黙を破り、叢雲が言った。怒りを漸く押し殺した、低い声。伊真が肩身を更に狭くするのが解かる。
「この街の、平和を、守る為には、素性の知れない、やからは、極力、入れない。忘れて、ないよな?」
 一語一語を律儀に区切りながら。伊真に言い聞かせるためと言うよりも、まくし立てるとせきを切る怒りを抑えるためのようだ。
「……覚えています……。そのために簡単ながらも関所を用意している事も、存じています……」
 関所と言っても、形だけ体裁を取り繕ったような簡素ショボい物だが。余談だけどね。
 シュンとしながら、伊真が答える。おびえる小動物のようなその表情にも、嗜虐しぎゃく的な愛嬌を感じてしまう。
「だったら、どうして、あんな物を、拾ってきた?」
 語気が少し荒くなったのを自覚して、深呼吸をする。
 あんな物扱いは当然、尾羽張だ。突き付けた指の矛先が、それを明確に知らしめる。当の尾羽張はと言うと……余り気にしていないようだ。如何でも良い事なのであろう。
 僅かな熟考の時間を設けてから、伊真は答えた。
「……可愛くって ハートマーク
「何処がだァ!!!!」
 頬を赤らめて見せた伊真。怒りにかまけた激しい叢雲の突っ込みが、窓硝子ガラスを震わせた。
「冗談ですよ。そんなに怒らなくたって……」
 困ったような表情で、伊真が呟いた。
「……いつも……あの調子か……?あの女は……?」
 寝そべっているためここでけたりはできなかったが、魂の底から込み上げる脱力感には勝てず、尾羽張は問いかけた。それに対して、深に入った表情で八尺瓊が「恥ずかしながら……」と一言付け加えながら首を縦に振る。八咫も、無表情ながらに肯定の意を示す。
「犬猫に限らず、無機物でさえも、無闇むやみに拾ってこれば厄介事トラブルの種になるんだぞ?!」
 机に叩き付けた拳が、きしんだ音を立てる。否、軋んだのは拳ではなく、机の方だった。木製の机に、目に見えてヒビが入っていた。
 余りの剣幕に、慌てて伊真が椅子の背凭せもたれの陰に隠れて、一言。
「この机……(わたくし)、気に入ってましたのに……」
「オレに喧嘩売ってんのか?舐めてんのか?馬鹿にしてんのか?火に油注いでんのか?それともただ単純にオレの事が嫌いなのか?どれが適切なのか、お前の口から言ってもらえるか?」
 抑え込んだ怒りが、極限までき上がり、封を切ろうとする前兆。震える度に空気を刻む両肩が、どうにか怒りをやり込めようと奮闘している事が解かる。
他人ヒトの話を真面目に聴きやがれッ!!!」
 奮闘虚しく、怒りは結局破裂した。
 絶叫が木霊こだまする。
 椅子の裏で震える伊真が小動物なら、怒りに震える叢雲は腹を空かせた猛獣か。違ったとした所で、大差はないであろう。
「ただでさえこの街には科学万能時代の遺産テクノロマイティ・レガシーが多く残っているんだ!!素性の知れない輩は極力近付けない!!こいつ自身、どんな不逞ふていの輩か知れたもんじゃない!!」
「そんな……尾羽張さんに失礼ですよ……」
 声を荒げる叢雲の台詞セリフを聞きとがめ、弱々しく叱責する。チラリと見やれば、当の尾羽張はしかし、気にした様子もない。聞こえてないわけではないであろう。ただ、如何でも良い事なのだ。彼にとって、自分を含めた全ては、他人事ひとごとでしかない。
「失礼も何もあるか!!」
 ガン!と罅の入った机に、もう一度拳を叩き付けた。亀裂が更に広がる。
「実際に、オレ達はこの尾羽張とか言う奴の事を何も知らないだろうが!科学万能時代の遺産テクノロマイティ・レガシー目当ての盗っ人コソドロかもしれん!精神異常を来たした殺人狂キリング・マニアかもしれん!厄介事を引き連った厄介人トラブル・メイカーかもしれん!『剣聖蜂起の世界大戦』を再現し得る『聖剣』暴走者オーヴァー・ローディアンかもしれん!!」
 全て……外れだよ、と。尾羽張が呟いたのは、叢雲には聞えない。興奮しているため耳に届かないというのも、あながち見当外れな理由でもないかもしれない。が、最大の要因は、その呟きが胸中の物であったからだ。
「でも……ですけど……」
 伊真が、背凭れの後ろから顔を覗かせ、恐る恐る弁明した。
「尾羽張さん、怪我してましたのよ?治療して差し上げませんと、死んでしまっていました……」
 彼女の言葉に、叢雲はギリ……と歯噛みした。そして、腰を椅子に落ち着けて、前髪をグシャグシャと苛立たしげに掻き乱した。
「わかってるよ……確かに、瀕死の怪我人を放っておけないって気持ちは……」
 苦しそうに呟く。それは、人情と使命とに板挟みされた葛藤だった。
「だから、その場で八尺瓊に手当てをさせた事について責めるつもりはない」
「そう、思いますよね?」
「だけどだ!!」
 背凭れから顔を上げた次の瞬間、叢雲の激しい声で元の鞘に収まってしまう。何と言うか……過剰な反応オーバー・リアクションで、自分の感情をそのままにさらす女性だ。
「許せるのはそこまでだ!!街の中に尾羽張これを持ち込む事に関しては、容赦できん!!」
 既に、背凭れに添えた、親指を除く左右各四本・計八本の指しか見えていない伊真に、怒声を浴びせる。
「ですけども……あのまま放っておいては、傷を塞いだ所で出血で死んでいましたのよ……」
「……仕方あるまい……!見ず知らずの輩一人のためだけに――例えそれが可能性の問題とは言え――この街の住人達に危険を及ぼす要因を持ち込むわけにはいけない!」
 その言葉に、隠れていた伊真の頭が浮かぶ。瞳が、叢雲を見据えた。
 据わった瞳。感情がたかぶる叢雲は気付かない。八咫と八尺瓊が短く、小さく「やばい」と呟くのを、尾羽張は聞き逃さない。
「叢雲さんは……尾羽張さんの命と街の人々の命とを、天秤に掛けるおつもりですか?」
 少し、沈み気味の口調。それが彼女の怒りの兆候だと言う事実を、付き合いの長い八咫・八尺瓊は承知していた。
「当たり前だろ!」
 叢雲は――承知していた所で、兆候それと気付いていない。
「たった一つの命のために、街全体の三千を超える命を」
「叢雲さん!!」
 叫び、背凭れに添えた両掌はそのままに、伊真が立ち上がる。
 唐突な伊真の感情の豹変。叢雲が目を丸くして、漸くその事態を認識する。
「訂正……して下さい……」
 淡々とした口調。それに当てられたのか、昂ぶる感情が急激に冷めていくのが自覚できる。
「叢雲さんの、その、命をお金の勘定のように扱う発言。訂正して下さい」
 先程までのおどおどしい色彩は、伊真の瞳には残っていない。真摯しんしな瞳の奥底は、静かな、純粋な憤りで満たされている。
(わたくし)だって、手当てあてが専門とは言え、自警団の一員です。全ての事態が死から逃れられるとは思ってはいません。時として、命を救うために命を散らせてしまう矛盾が存在する事だって、充分に存じています……」
 悔しそうに、唇を噛んだ。悲しみは、現実の前にもろくも崩れ去る理想の果敢無はかなさに対してだけではない。理想を貫き通せない、自身の力と心の弱さに対する物も含まれる。
「ですけど、命を一つ二つと数えるような、簡単な算数で計算するような事は……やめて下さい……それは、人の命の重さをとも容易たやすく忘れさせる、方程式にもなるのですから……」
 ただ、真直ぐに見詰める瞳。叢雲の視線と絡み合う。
 ほどけたのは、ほんの十数秒が経ってから。解いたのは、叢雲の方から。
 それから更に十数秒。沈黙の中、八尺瓊が緊張に唾を飲み、八咫が無表情に成り行きを見守る。尾羽張だけはいつもの「如何でも良い事だ」と言いたげな気怠さで、全てに無関心を貫き通す。
「……悪かったよ……」
 消え入りそうな声。投げ遣りな言葉。自分の間違いを素直に認めながらも、それを素直に口に出来ない不器用さ。自分が街の最高権力者である。例え傘に着なくても自覚するその重圧プレッシャーが、彼女を少し天之邪鬼あまのじゃくな性格に変えてしまっていた。
 叢雲の、そんな素直さも不器用さも充分に把握している伊真だ。素直じゃない言葉の裏に隠された確かな自粛と謝罪の気持ちを、しっかりと汲み取ってやっていた。
「解かれば宜しい」
 相好そうごうを崩し、微笑んだ。満足げなその伊真の表情に、八咫と八尺瓊は胸を撫で下ろす。 「と、言うわけですので。尾羽張さんの事(わたくし)に任せていただけますわね?」
「ああ……て、待て!!それとこれとは話は別だろ!!明らかに!」
 危うく縦に振ろうとした首を、慌てて横に振り直す。
「なんだかんだ言っていても、入れてしまった事は仕方がない。それについては諦める!だが、尾羽張コレが――もしくは尾羽張コレの関係者が厄介事を巻き込む危険性を考慮に入れる義務が、オレ達にはあるんだ!得体が知れない輩である以上、尾羽張コレをこの街から放り出すべきだ!!」
「そんな……」
「そんなも天糸瓜ヘチマもない!!」
 一体誰が初めに考え出した成句フレーズだか知らないが、叢雲は伊真の反論を一瞬の間も置かずに却下した。
「治療もした。輸血もした。これ以上この街に置いておく義務も義理もオレ達にはない!!どころか、危険を減らす義務がオレ達にはある!!余所者よそもの!!貴様の方も異存はないな?!」
 おもむろに尾羽張を睨み付け、叢雲が強く問う。
 彼は緩慢な動作で枕に埋めた顔を上げ、面倒臭そうに答えた。
「ああ……構わんさ……」
 怒気をはらんだ叢雲の視線に抗うでも反らすでもなく絡ませるでもなく。ただ、それだけを答える。他者から受ける怒りも親切も――彼にとって、ひとしく如何でも良い事なのだ。
「尾羽張さん!!」
 驚き、叫んだのは、伊真だった。
貴男あなたはまだ、充分に体力が回復なさっていないのですよ?!先程だって、足元がふらついてなさったではありませんか?!」
 必死に、尾羽張へと説得の言葉を投げかけた。
 尾羽張は伊真に、やはり全てに対する無関心を込めた視線で答えただけ。ただ、如何でも良い事だとでも言いたげに。
「貴様には、関係の無い事だろう……」
 体をねじると、腹筋だけを使って半身を起こす。充分な休養を取ったためだろうか?体中を蝕む疲労感が、改めてドッと押し寄せてくるのが自覚できた。
 しかしまァ、どちらにせよ、元々から全身を宿り木にする無気力感が、それを気にさせる様子もなかったが。
「関係なくなんて」
「あまりしつこく食い下がると」
 長靴ブーツに手を伸ばしつつ、呟くように言い放つ。そして左の人差し指を叢雲に向けると、
「そっちの恐ェに、また怒鳴り散らされる……」
 叢雲に向けた指先が、唐突に力無く下へと落ちる。暫しジッと叢雲の顔を睨み付けていた尾羽張は、徐に長靴(ブーツ)から手を離した。
「オイ、貴様……何をしている?」
 長靴(ブーツ)を脱ぎ捨て、寝台(ベッド)の上に足を放り投げた尾羽張の行動を見て、叢雲が尋ねた。抑えてはいるが、すぐにでも理性の糸を断ち切る準備が整っている、ギリギリの声音。
 一瞥するように叢雲を見た。そしてすぐに、視線を外した。それは当然、叢雲が放つ雰囲気に呑まれ、恐怖したためではない。
 それから、尾羽張は改めて言葉を紡いだ。一言一言をしっかりと区切りながら、全ての無気力感だけをズッシリと乗せた言葉を。
「気が変わった……しばらく、ここに厄介になる事にする……」
 一方的に言い放った瞬間、ガタン!!と言う音が聞えた。続いて、小刻みに小さな音が続いて、消えた。叢雲が盛大に椅子を跳ね飛ばし、立ち上がったためだ。
「貴様……!!どういうつもりだ?!」
 あらわになった怒りを込めて、叢雲が全ての感情を尾羽張に叩き付けた。一緒に、拳を机に叩き付けると、その勢いに負けて、少し全体がかしいだ。
 悪鬼の形相で双眸そうぼうの視線を尾羽張に突き刺す。叢雲の勢いに負けて腰が引ける伊真と、思わぬ展開に――いつでも対処が利くようにと――腰を浮かせる八咫と八尺瓊。そんな三人を気にした様子もなければ、怒りの叢雲に気を使った様子ふうもない。ただ、今まで同様に如何でも良い事だと言う様子ふうなだけだ。
 呟いた叢雲の問いへの回答は、いつもの声音で非常に簡素シンプル要約まとめられていた。
「貴様には、関係が無い事だろう……」
 実を言う所、無いわけではない。否、寧ろ密接に関係があるであろう。だからこそ、その事実に気が付いたからこそ、彼はこの街に残る事に決めたのだ。
 しかし、叢雲にとって、そのような事は関係がない。ただ、尾羽張のその投げ遣りな態度が、叢雲には侮辱に思えた。たった一つのそれだけが、重要な事実であった。
 一瞬――視線が矛槍の如く尖り、尾羽張の体を今度こそ刺し貫く。
 ガタッ!!と言う音。叢雲が、壊れかけの机に足を掛けた音。その音に倣うようにして、八尺瓊と八咫が同時に前に出る。最悪、刃傷沙汰にんじょうざたを起こしかねない叢雲を止めようとしてだ。
 机を蹴り、思いの他高い――しかし、飛び廻るには充分過ぎる程に低い――天井スレスレに、尾羽張は撥ねた。
 その俊敏性は極めて高く、叢雲を押さえようとした二人の間を、一陣の疾風かぜと成って擦り抜けて行った。左の腰溜めに構えた右手に乱舞する若草色の星屑達が、ほうきぼしのように尾を引き、踊っていた。
 ヒンッ!!と、空気を切る音。鳴り響くと言うよりもむしろ、炸裂するようにして、部屋にいる者達の耳に届いた。
 叢雲を取り押さえる事に失敗した。最悪の惨事を避ける唯一の方法は、叢雲自身が理性を保ち自重してくれる事だけだろう。そんな事を胸中で思いながら、八尺瓊は恐る恐るに、しかし慌てて尾羽張の後を視線だけで追う。
 叢雲が足を床に突けると同時、若草色の星屑達は散華(はじ)けていた。
 一瞬だけ視界に霞んだ白色の軌跡。下から上に斬り上げるようにして円弧アーチを描いていた。
 ほんの刹那の狂乱は結局、血に花咲かせる惨事にならずに終わった。それに八尺瓊はホッと胸を撫で下ろしていた。伊真も同様であったが、八咫だけは変わらず表情が読めない。
 寝台(ベッド)の三分の一程には、大きく爪痕を残している。それを作り上げたのは、振り上げたままにされた叢雲の一振りの剣。叢雲に名を連ねる者の魂の内に常に追随してきた、三種の神器の一角。名を、《天叢雲剣》――人によっては、《草薙剣くさなぎのけん》と呼ぶ方が親しみ易いかもしれない――と言う。
 刀身はおよそ80[cm]――より、少し短いくらい――。全体に仄白ほのじろい、小さく反り身を持った片刃の剣。三種の神器において征服と武力を象徴するに相応ふさわしき、畏怖いふを鎧う『聖剣』だ。
「叢雲君。好い加減、その物騒な代物しろものを仕舞って戴けませんか?」
 惨事にならずに済んだ。その事実に安心してから、八尺瓊が叢雲をさとして言った。どうやら彼は、何かと他人を諭して回る位置付けキャラクターであろうようだ。
 しかし、どうも八尺瓊の言葉は叢雲には届いていない様子だった。ただ硬直して、微動だにしない。
「……叢雲さん……?」
 八尺瓊の言葉に反応を示さない叢雲。怪訝けげんに思い首を傾げる八尺瓊に代わって、伊真が同じく怪訝な面持ちで声を掛ける。
「叢雲君。一体全体どうしたんで……?!」
 ハッと、八尺瓊は息を呑んだ。叢雲の背中から覗くように寝台ベッドの傷痕を観察した時だった。
 生身の剣には到底及びもつかない、綺麗過ぎて現実感の無い斬り傷。その鋭さは、普通の刃物を用いたならば「千切れる」事が精々な真綿さえをも、見事な断面を呈して真二つに切り裂かれている程だ。
 傷痕が伸びるのは、尾羽張の脇腹の寸前。あとほんの一歩だけでも叢雲の踏み込みが深ければ、治ったばかりの傷口はもう一度開かされていたであろう。
 しかし叢雲がその一歩を踏み止まったのは、どうやら自制の心が働いた為では、決して無いようだ。寧ろ、その一歩を踏み込めなかったと言った方が、遥かに正しいだろう。
 尾羽張を見下ろす叢雲の視線に、一種、畏怖にも似た険の深さが刻まれる。うなじに流れ落ちる汗の一筋は、冷や汗と見て、先ず間違いなかろう。
 叢雲の踏み込みと剣捌けんさばきは尋常でなくはやく、鋭かった。美貌だけでなくその戦闘能力においてもおいそれと他者に遅れを取る事の無い八尺瓊と八咫の二人を以ってしても、その一撃を僅かでもさまたげる事が出来ぬ程に。
 しかし……。
 尾羽張の右の拳は、力無く握られていた。丁度口元の辺り。放り出した左足、曲げて立てる右足。その右足の膝に肘を乗せて、気怠げに、凭れ掛かるようにして、尾羽張は拳を握っていた。
 視線は、その態度と変わらず、気怠げに。ただ、叢雲に向けられる。狙うは首元。剣呑けんのんに突き付けられたきっさきが、寸での所で皮膚に接しているだけの、叢雲の首元。
 叢雲が、自身の魂の鞘から《天叢雲剣》を引き抜くのに要した時間が、僅かに1[sec]弱。しかし、尾羽張がそれに要した時間は、ほんの瞬間か刹那の間だけ。発生(うま)れ、収束(むす)び、散華(はじ)け、そして消失(きえ)る。一連の行程プロセスが全て重なり、気怠げな彼の掌中に納まっていた。
 尾羽張に名を連ねる者の魂の内に継がれてきた《天尾羽張》。そのを持つ『聖剣』は、腕をピンと張り、その先に剣を持ってしても射程に入る事さえ許さない程に不公平なまでの攻撃距離リーチを有して、叢雲の斬撃を宿主の体から遠ざけていた。
 息を呑む叢雲。呆気あっけに取られる八尺瓊。呆然とする伊真。表情が微動だにしない八咫。四人の動向を軽く順繰りに追ってから、尾羽張は『聖剣』を納めた。普通の剣のように、鞘と当たって音がするわけではなく、前触れ無く、無音で掻き消えるだけ。そこに在った物が、幻であったかのようにして。
 感情の篭もらない無為な尾羽張の視線が、どうにも侮蔑の冷ややかさに思え、叢雲は歯噛みした。
 剣を引き、酷く悔しげに舌打ちを鳴らした。
 振り上げた拳の納め所を失ったように感じながらも、振り上げた物が『聖剣』だっただけに、納めるべき鞘があった。叢雲は《天叢雲剣》を魂の奥に押し込め、無様に流れる冷や汗をぬぐった。
「……『剣聖』……か……。物騒な奴だ……」
 負け惜しみにしか聞えない言葉で場の沈黙を破った叢雲の後頭部に、パン!!と、爽快な音が届いた。同時に、柔らかな物が叩き付けられる、軽い衝撃も襲った。
 お届け物は、八尺瓊の掌。困ったような、諦めたような、なんだか微妙な面持ちで「他人ひと様の事を言えた義理じゃないでしょうが……」と、諌めるように呟いていた。
「兎に角、こんな危ない奴、この街に置いておくわけにはいかない。やはり、追い出してしまうべきだ」
 ……何故か、説得力に欠ける叢雲の言葉。
 視線だけを向けると伊真が、左手を机――亀裂も激しく、もう新しい物に変える必要がありそうだ――に立て、右手でひたいを押さえ、大仰おおぎょうに首を振り、大袈裟な溜め息を漏らした。それから改めて叢雲の方へと歩みより、彼女の両肩にを添え置いた。
「な……何……だよ……」
 不思議な威圧感を受け、尻込みする叢雲。単純な喧嘩の腕なら天と地以上の実力差がありながら、伊真から受けるその威圧感は、これもまた単純に、苦手意識があるからだろう。
 伊真は無言のまま……微笑ほほえんだ。何処か含みを感じさせる、しかし、艶然えんぜんとした笑みだ。そこにはやはり、不思議な――不気味な、と訂正しようか?――圧迫感が付き纏う。
 尾羽張が寝台ベッドに体を横たえ、横目でそれを見やる。叢雲の腰は少し落とされており、気迫で惨敗している様子さまが、傍目はためにも容易に理解できる。
「い……良いか……兎に角、この件に関しては、オレは退けないからな……」
 所々、言葉に気迫が無い。逆に、無言の圧力に負け、退ける腰はそのまま床にペタンと落ちる有り様だ。
「叢雲さん?」
 少しハズみ気味な伊真の声。明らかに、状況を楽しんでいる。
 そんな彼女の声音に思う節があったのか、思わず尻餅を突いたままで後退あとずさる。しかし、不幸にもすぐに背が寝台ベッドに当たり、それもかなわない。推進力を得る為に伸ばした両足だけが、虚しく残った。
「……よろしいですよね?」
 伸び切った叢雲の両足の上にストンと腰を落として、彼女の逃避を抑止してから、端的に尋ねた。当然、尾羽張の件に関してだ。叢雲とて、それを理解するのに時間を要する程鈍くはない。
「駄目だ!これは街の安全の為に必要な決断だ!例えお前がどんな脅しを使おうと、オレは絶対に屈しないぞ!!!」
 言葉だけなら勇ましく。だが、如何いかんせん寝台ベッドの縁にベッタリと背を付けて逃げ腰がてらの言葉である。かなり本音は弱気だ。
 伊真はしかし、ソッと添えるようにして、叢雲の両頬を、両手で包み込む。彼女の頬をそのままいとおしむようにして撫で回す。瞳は少しうるませるようにして、叢雲を見詰める。この上なくなまめしやかな伊真の表情に、叢雲はゾッと悪寒を感じた。が、これ以上に退路にげみちは無い。
「叢雲さん……」
「駄目だ!駄目だぞ!!絶対に、これだけは退けない!!!!」
 鳥肌を立てながら、そう叫ぶ叢雲を見ていた八咫が、ボソリと呟いた。
「なんだか、ただ単に意地になっちゃってるだけのようね……」
 と。叢雲には、聞えなかったようだが、八尺瓊は肯定の笑みを曖昧あいまいこぼしていた。
「もしも……了解してくれないのでしたら……」
 ゴクリと、叢雲が唾を呑むのが、両頬に添えた両掌から感じた。
 伊真は構わず、目蓋を下ろした。少し首を傾げて見せたのは、高さを合わせる為。
 そして、ゆっくりと顔を近付けて行くと、伊真は優しく囁くようにして、こう宣言した。
初接吻ファースト・キッス……奪っちゃいますよ……」
 一瞬にして、叢雲は全身総毛だった。今なら、鶏にでも生まれ変われると言わんばかりに、激しく。
「だァ!!めろ!!何考えてんだお前はァ!!オレにそんな趣味は無いいいいいィィィィィィ!!!!!!」
 絶叫が、室内に木霊こだました。逃げようにも、両足は既に抑えられている。自由なままの両手で、伊真の唇の接近を押し退けようと躍起になる。
「ン〜〜〜〜〜〜〜」
「わああァァァァァァ!!!!!!!!!」
 腕力ではまさるはずの叢雲の腕の力をものともせずに、徐々に徐々にとその距離をせばめる伊真の唇。相手の恐怖をあおすべを心得ているようで、無意味に唇を尖らせてみたりもする。しかも、伊真自身は満更まんざらでもなさそうに、嬉しげに。
「タス!!助けろ!!八咫ああぁァァ!!!八尺瓊いいィィィィ!!!!」
 求める救助の声にも、二人は顔を見合わせてから肩を落として、同時に呟いて返すに終わる。八尺瓊のすまなさそうな声音と、八咫の無感情な声音が重なる。
「出来れば、火の粉は降り掛からないに限りますので……」
「後で何されるか解からないから……」
 友達甲斐の無い……。
「頼む!止めろ!止めてくれェ!!解かった!!許す!!認める!!!了解する!!!承認する!!!御前に任せるから!!!!だら、止め、止めてよおおおぉォォォォォォ!!!!!!!!!」
 最後は、涙声。普段は作っている男言葉も何処へやら。捕われのお姫様よろしく哀れみを誘う。
「ん。解かればよろしい」
 疲れ果て、恐怖に涙し、子供のようにしゃくりを上げる叢雲とは対称的に、伊真は笑顔で御満悦ごまんえつ
「尾羽張さん。そう言うわけですので、どうぞお体をお休めになっていって下さいね」
 別に、伊真がどうのこうのと手を回さずとも、尾羽張はここから動くつもりは更々さらさら失っていたのだが……。ただ、何と言うのか、全てに無関心・無感動を通してきた尾羽張の心の底で、叢雲に対する憐憫れんびんの情が湧いてきて、何とも居心地が悪かったりもしてみたりみなかったり。因みに、八咫・八尺瓊両名は、哀れな叢雲ぎせいしゃに合掌していた。
 ガチャン!!と、激しく空気を震わせて窓硝子が割られたのは、丁度、そんな時だった。

to be continued...

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