序章 その別れ、悪夢となって繰り返す...
焦土と化した土の匂いが鼻を刺す。大自然の象徴とも言える若草でさえ、今は曇った臭いの元となる。
「姉さああァァァァァァん!!」
今にも砕けてしまいそうな、肉体と魂の狭間(で、彼は叫んだ。あらん限りの声量と、願いの丈の全てを込めて。流れる涙を、止めたいとは思わない――そんな事にまで、思考(が回らないだけだが――。だから、止めるべき堰(も無く、ただひたすらに流れ続けた。
「萩(……利(……」
彼女は、力無く呟いていた。弟の絶叫に、霞み、消え入りかけた意識が叩き起こされて、それでも尚、それだけの力しか振り絞れないでいる。
衣服の所々は無残に切り裂かれ、所々は灼(け焦げる。体の各所に残された獣の牙と火傷(の傷痕。利き腕である右のニの腕は、惨(たらしく咬(み千切(られている。脇腹は深く抉(られ、致命傷を疑う余地もない。
満身創痍(の言葉でさえ、今の彼女を形容(す事はできない。今こうして立っているのでさえ、彼女の力ではない。彼女(の意志とは裏腹に、強引に立たされているにすぎないのだ。
瞳から溢(れるのは、今生(の別れを悟った者の涙。肉の内から流れるのは、嘗(ては燃えて滾(った命の雫。
その二つの流れが、彼女――萩利の実姉(、尾羽張(磨夜(――の命の果敢無(さを物語る。もはや……命を存(らえる事はできないであろう。悲しくも、それが現実。
「へへへへ……他人を思いやる余裕(があるとは……な!」
長身巨躯の男が呟くなり、ガブリと。厭(な音が鳴る。耳の奥底に残る、不快極まりない音。
磨夜の右肩が、喰い千切られた。男の分厚い胸板に絡み付く巨大な獣に――否、獣ではないであろう。生物学上の分類とするならば。
それは蛇。緑の鱗を持ち、多くの伝承において悪の化身とされる醜悪(ましき爬虫類。但(し、その胴体は丸太の如く、頭は岩石(の如く。兎や若い狼くらいなら、軽く一呑みにしてしまいそうな巨大さだ。瞳は不気味に赫(く燐光を宿す。鱗の色彩(も緑ではなく、炎と憤怒を連想させる紅の色。明らかに……蛇と呼ぶべき生物(ではない。だから、獣と称したのだが――称するならば、寧(ろ化け物の方が的確か。
「……!!」
磨夜は苦痛に目を見開く。搾(り出すべき悲鳴を探すように、喉の奥からは奇怪な嗚咽(が漏れる。ダラリと垂らした両腕を指の先まで痙攣(させた。右腕は、既に肩から先は無かったが――あったとしたらば、間違いなく痙攣(していただろう。
磨夜の、長く艶(やかな髪を無造作に鷲掴みにした男。その男とて――果たして、人と呼べるのか?
苦痛に喘(ぐ磨夜を見下すその瞳。縦に細く穿(った邪悪な瞳孔(が、命の蹂躙(に悦楽を覚え、赫く燐光(を燈(している。
磨夜の体を強引に立たせているその力強くも凶暴な腕と、延(いてはその全身。隈(無く自身を覆い守る鎧の如く、びっしり鱗が覆い尽くす。炎に似た、荒れ狂う紅(の鱗で。
蛇身の男もまた、蛇(と違(わず化け者だ。
「全く……弱い、弱すぎるゼ。その程度で俺達『蛇の輪廻』の八首魁(に挑もうとはな……無謀というのも痴(がましい限りだ」
主人に従うかのように、胸に絡み付く蛇(も、チロチロと細い二股(の舌を出して入れて、その光景を眺めていた。意志を持たぬはずの低脳な爬虫類のその瞳は、恰(かも貧弱(な人間を嘲(笑(っているかのように、爛々(としていた。
「止(めろおおオオオオォォォォォォ!!」
叫び、まさしく最後の力を振り絞り、萩利は姉を傷付けようとする不逞(の輩(に殴りかかる。が、それは男が放つ無雑作な蹴り足に止められるに終わった。
呻(きながら、前のめりに倒れた。頬を伝い流れるは、苦痛に因(る涙ではなく、口惜(しさに因る涙。
「邪魔すんなよな……やれ、《火雷邪巳(》」
男の命令に、巨蛇の鎌首が持ち上がり……萩利の腹に強烈な頭突きを打ち込んだ。弧を描き宙を舞い、背中から地面に叩き付けられる。
「萩利……!」
何時(の間に手にしたのか。何処(に佩(いていたのか。女性としては比較的背の高い磨夜の身長よりも、更に長い白銀(色をした超長尺(の両刃(剣。柄の長さだけでも十拳(に及び、剣身の全てを加えるならば、蛇身の男の長身を超える程の長さを有していた。
その身に残る左腕でその長剣を振り、自身の髪を斬り捨てた。
「お?」
男の頓狂(な声を後目(に、地を蹴り、愛する弟の傍(らに駆け寄る。致命傷を負う者の身の動作(とは思えぬ俊敏さで。
弟の枕元で膝を突く磨夜の手の内には、既に大剣の姿は無い。
「萩利……萩利……」
片手で抱き起こして軽く揺さ振ると、萩利の目蓋(が気怠(げに開かれた。
「姉……さん……」
小さく呟いた萩利の頬を、焼けるような風が凪いだ。姉の顔が、苦しみに歪む。その表情だけが、厭に鮮明に記憶の底に残った。
「何遊んでんだ?さっさと死んじまいなよ」
姉の肩越しから見えた巨蛇の口に、ぞろりと並んだ鋭利な牙。喉の奥にはチロチロと炎のように赤いの舌を覗かせて――いや、違う。その鮮烈な赤は、「炎のような」ではなく、炎が舌のように揺れている。
肉の焦げる匂いが、嫌味なくらいに鼻孔に突いた。
「ね……えさ……ん」
薄れ逝く意識が、覚醒しようとする。余りに残酷な現実の訪れを感じ取り。
「萩利……」
残る意思と意識を振り絞って。覆い被さるようにして、最愛の弟を見下ろした。
死へと赴(く事への恐怖に曇る事無き強固なる瞳と意志。しかし、これから自分が犯そうとする罪深さに、激しすぎる悲しみが宿る。流れる涙は、懺悔の想い――重たすぎる宿命を、愛する弟に押し付けねばならないと言う、辛い懺悔を零している。
「辛いでしょうけど……継いで頂戴……蛇の一族を絶やし得る……たった一つの『聖剣(』を……それが、私達尾羽張(の姓(を継ぐ者の……宿業(だから……」
息苦しさで絶え絶えとなる言葉は、しかし、気力で以って明確(と伝える。
「愛しているわ……今までじゃなくて、これからも……。生きて……幸せになってね……」
その言葉の後には、「御免なさい……」と、最後の一粒になった涙と一緒に零した。そして――
彼女は文字通り光になって散った。目(映(い、夜の闇を切り裂く星の光に。
光の意志を、最悪の現実と共に受け留めた萩利は、残った意識が弾ける音を聞いていた。或(いは、それは自身の絶叫だったかもしれない。悲しみに支配される事で、正気を振り払おうとする、狂気の絶叫だったのかもしれない……。
血だらけになった男が、星屑の連なりに織り成された炎のような紅の闇を放って消えた。悲鳴が咆哮へと鳴り、静寂へと成る。
後には、凄絶な戦いに勝利した虚(ろな瞳の少年が佇(むのみ。満身創痍の少年の名は、尾羽張(萩利(と言った。
彼が手にしているのは、十拳(にも及ぶ柄と刃渡りは優に2[m]を超える超長尺の両刃(を持つ長剣。姉が遺(して逝(った、たった一つの形見の剣。
魂を刻むは生きる事への苦しさ。姉と共に、生きる事への意味も喪(った。
何もかもが空虚になった萩利にはもう、生きる意志は残っていない。しかし……姉の放った光の遺志を裏切る事もできず……。それは、そう……死ぬ事もできないでいるという事だ……。