涙……

 ……嫌だ……消えるな……失くなるな……流れるな……
 香奈との思い出が……何故流れてしまう?
 俺の胸の中てのひらは、そんなに狭かったのか?掴み取れない程に小さかったのか?
――何故ニ レノ望ミヲ否ム?
 望み?これが……?
 違う!俺は、香奈との思い出を忘れたくは無い
 望んだのは、香奈への想いの証明あかし!死を哀しんでいると言う結晶あかし!!
――汝レニトッテ 其レハ等価ナルモノ
――故ニ 此処ハ望ミ叶ハリシ〃世界〃
――汝レノ流ス涙ガ ソノ証
 ……ああ……本当だよ……俺は……泣いている……泣けている……
 だったら、此処は俺の望んだ世界だ……


 思い出が流れ落ちた。掌中に溜めた水が零れるようにして。
 必死に繋ぎ止めようとしても、先びになるだけ。掌中の水と同じように。
 幾度それを繰り返しただろう?解からない。覚えていない。何故なら、忘れているから。
 水島は、涙を流していた。
 ――解からない。でも、とても哀しかった。
 何故哀しいのか解からない程に哀しかった。



 幾重にも続いたその哀しみの中で。
 何者カガ コノ哀シミヲ破リニ進入シタ



(強ェ……)
 香奈の遺影にを合わせながら、稲村は感じた事をそのまま胸中で言葉に成す。
 香奈に感じた感覚ものではない。由直瀬家に足を踏み入れた瞬間から感じでいる感覚もの。ジリジリと、あるいは強烈に。入り乱れながら、肌と言わず目にも耳にも。容赦無く飛び込んで来る感覚もの
(忘れていたな……。人の死は、良かれしかれ、強く"望み"を生むって事を……)
 合掌をほどき、瞼を押し上げる。光に続いて瞳が捕えるのは、明るく生気に満ちた――それでもやはり、故人である事に一切の否定を持たない――香奈の笑顔。黒い額縁がそのまま彼女を囲う"死"の牢獄のようで、どこか寂しげだった。
 掌を合わせていたのは、香奈への追悼が一つ。もう一つは、彼女の自室への入室許諾を申し込む為。
 その許しが下りると思っているわけではない。例え彼女が首肯しようと拒絶しようと、死者の声に耳を傾けるような器用な特技は、幸か不幸か持ち合わせていない。ただ、彼なりの死者への礼儀として、形式的に霊前で申し出ているだけ。
(あんまり喋った事ァ無かったケド、水島が惚れ込むのも納得出来るような女だったよな。確か)
 僅かに残っている香奈の記憶を引っ張り出しながら、稲村は思った。
 目が合う度に身を竦ませて、鈴木か玲の背中に隠れていた、小動物にも似た小柄な少女。しかし、鈴木か玲を介して一言二言の言葉を交わした時には、対人嫌悪症の稲村であってもホッとするような雰囲気を持つ少女だった。
 咲良もあんなだったら、もっと付き合い方も違っていたのになと、我知らずに考えていた。「我知らず」と言うだけあって、全く自覚は無かったが。
 折っていた膝を伸ばすと、畳の上に立ち上がった。
「しっかし」
 ボソリと呟きを零すなり、四方に軽く一瞥くれた。
 由直瀬家は、発展途上の片田舎の、取り残されるように奥まった場所に建てられている。言葉を飾れば「年季の入った」その家は、土地と共に大正に前後する先祖から受け継がれてきた。
 その所為せいだろう。呆れる程の広さと、カビ臭さを伴する古さを持っていた。
 香奈の遺影が立てられている応接間とて例外ではなかった。畳や障子戸、壁紙、ふすまなどはまだ新しいが、柱等の交換が難しい物は手アカに汚れ、濁りを残す黒を呈する。
 この部屋だけでも一人でいると"孤独"を強烈に連想させる広さを持ちながら、襖戸を外せば隣接した居間とがれ、およそ二倍の広さになる。
 この二部屋で、香奈の葬儀は執り行われた。隣室の三分の二で彼女を床に就かせて――祖父や祖母、それよりももっと古い親族達と同じように……――
 つまり、参列者達の多くはこの部屋で涙を流していた事になる。「死んじゃイヤだ」「もっと遊んでよ」と言う、幼い望みを想いながら。「天国に召されると良いねェ」「仏様に良くしてもらって欲しいねェ」と言う、年を重ねた望みを想いながら。「嘘だ。信じたくない」「起きなさいよ。死んだわけじゃないんでしょ?」と言う、現実から目を背けた望みを想いながら。
 この世に万を超える色があるように、似ていようが何処かで必ず微妙に違う。そんな望み達が、葬儀の場で確かに成されていた。
 一つの溜め息をこぼしてから、稲村は漸く繋げるべき言葉を紡いだ。
「まァだ残ってやがるとはね。恐れ入る」
 頭をゆっくりと、だが大きく左右に振る仕種は、何処か辟易へきえきを含んでいるようにも見えた。
「あ、稲村。香奈ちゃんに御焼香おしょうこういて上げた?」
 ガラリと音を立てて開け放たれた襖から、鈴木が現れた。隣室との敷居戸でも庭を挟む硝子障子戸でもなく、薄暗い廊下側の襖。聡美に当ててもらった湿布シップが痛々しい。
 その痛々しい湿布を見て「ダーツの的みたいで殴りたくなる」と危険な感慨にふけりながら、うなずいて返した。
 そのまま鈴木と入れ替わりに部屋を出て、後ろ手に襖を閉めた。
 廊下に出てすぐ左手に視線をやれば、曇り硝子張りの引き戸で仕切った玄関。二十歩も進めば外に出られるだろうが、今はその必要も無い。右手に向き直り、黙って歩を進めた。
 部屋に比べると、廊下は明らかに狭かった。稲村が二人も並べない程度だ。葬儀に参列した者達も、この狭さの御蔭で往来には随分と難儀していた事を、フと思い出す。
 ギシリ、ギシリと。一歩踏み締める度に軋音きしねが鳴り、足元に不安を覚える。もしかしたら二条城のうぐいす張りみたく、泥棒避けに意図的にワザとこんな造りにしているのでは?と、思わず訝しんでしまう。考えてみれば家全体の鍵などは、あまりにも御粗末だった。
 そんなどうでも良いような事を考えていると、すぐに調理場兼食堂ダイニング・キッチンに辿り着く。実際に要した時間は僅か十秒弱、距離は十歩程度だったろう。
 食器棚の大きさと充実は、恐らく孫子三代で住んでいた頃の名残だろう。今ではたった二人の夫婦の為だけにそれらは在るのだが、かえって寂しさを募らせるだけだった。
 冷蔵庫の大きさは、単に小型化が果たせなかっただけ。要するに古いのだ。色褪せた乳白色の色合いが、それを推し測らせる。大きな擬似楕円の食卓は、デザインで以ってその古臭さを感じさせる。
 他に、床や壁や天井、果てには電灯や裏口の扉、空気その者に至るまで古臭さを作りながら、台所だけは妙に近代的なのが気にはなった。まァ、これは単純に五年前に改造リフォームしたからだが。
 折角広い間取りを持つDKも、古臭さと品物の大きさで手狭に見えて残念だなと。そんな事に想いを馳せながら視線だけですぐ正面に抜ければ、彼がまだ立ち行った事の無い部屋があるのが解かった。左手の襖戸は、恐らく居間だろう。
 ザッとした一瞥だけでそこまで観察した頃合で、正面の部屋から聡美が出て来た。鈴木に手当を施すのに使った薬箱を、たった今片付け終えた所だった。
「あ、晃司君。香奈に御焼香焚いてくれた?」
 そう言って微笑んだ聡美に何処かやつれた綻びを見付けながらも、 「ええ、今ァ鈴木が焚いてやってます」
 と、ぶっきらぼうに返す。
 聡美が机に着くのを目で追うようにして、稲村は再度部屋の中を見回していた。同じ立ち位置、同じ立ち姿勢で。ただ、『視点』だけを変えて。
 瞳には映らず、しかし確かにえる視界。
(充満している……。望みが。酷く鬱で、暗く、そして深い。恐らく、由直瀬のおばさんとおじさんの望みものなんだろうけど……)
 稲村は心苦しさで眉根をしかめた。そのしかめっツラを聡美に勘付かれ、「どうしたの?」と問われた。
「いや……こんな時期に娘さんを思い出させるような事になってしまって、申し訳無いと思って」
 彼らしからぬ言葉。言葉は取って付けたはぐらかしではなく、ちょっとした確認を含めた探り入れ。える望みが彼の確信通りの物なのか。それとも違うのか。ひどく不躾で人道に反してさえいると自覚しているから、せめて言葉遣いに礼儀くらいは尽くそうと、彼なりの誠意の表れだ。
「ううん。良いのよ、それくらい。晃司君だって、玲ちゃんの事を思っての行動でしょ?」
 思わず口走りそうになる否定の言葉をグッと飲み下す。話の腰を折って、確認したい事を確認できずに終わらせるのは、愚の骨頂だ。とは言え、表情が憮然となるのだけは禁じえなかった。
「それに、ね」
 そこで、聡美は顔を伏せた。沈黙が訪れたのは、一秒にも満たない時間だったと思う。
 顔上げた時に被っていた仮面は、無理矢理の笑顔だった。
「もう、忘れる事にしたから。だから、哀しさも少しずつだけど、薄れてきてるのよ?気にしないで」
 返される言葉は、余りに心に痛く突き刺さる。胸の痛みに奥歯を噛み締め、心の中で舌打ちをした。
(強がりは、弱さを隠す為の衣……。だが、その衣が"弱さ"じゃァ。本末転倒じゃねェか……)
「……どうかしたの?何処か痛い所でもあるの?」
 不意に、同じ事を聞かれた。どうやら、えた情景に心を重ねすぎたらしい。自分の顔が悲愴に暮れている事に気が付いて、慌てて首を振った。
(全く……らしくねェな。半人前も良い所だ)
 胸中で自嘲を洩らしながら、口では「いいえ」と虚偽の否定で返していた。
 丁度、その瞬間。喧しい音を立て、今の襖戸が開けられた。顔を覗かせるのは鈴木。少し、目が赤かった。
「聡美おばさん。香奈ちゃんの御焼香、焚いて上げました」


「……ビンゴ」
 ギィ……と、軋みを上げて分厚い木扉が押し開けられる。
 聡美に促されるままに部屋に入り、稲村は一瞥の直後にそんな一言を呟いていた。不謹慎だと思ったから、その呟きはすぐ隣にいる鈴木が辛うじて聞き取れる程度の声量にしか到ってはいない。
 香奈の部屋。玄関を上がってすぐ右側にあった扉の奥がそうだ。扉が余りに無機質だったせいで女のこの部屋とは思えなかったし、寧ろ物置か何かと思っていたのだが。覗いて見れば立派に"少女の部屋"だった。
 机、ポスター、ヌイグルミ、ベッド、小物入れ、壁紙、カーテン、カーペット。唯一洋服ダンスだけが少女趣味らしからぬ雰囲気を醸し出して異様だったが、取り立てて騒ぐ程の物でもない。
 騒ぐべき「もの」は、もっと他にあったから
えたの?」
 鈴木の問いには無言で首を縦に揺らす事で答えた。
 えるのはある程度いつもの事。だが、そこには一際異彩を放つ「もの」がえた。ビンゴの一言は、その事実を端的に且つ余さず鈴木に伝えていた。
 「何が?」と問うた聡美には、「いえ、別に」とまたしても曖昧な言葉ではぐらかした。
 少し怪訝さで首を傾げたが、それ以上の追求は無かった。
 聡美は後ろ手に扉を閉めた。軋音にも気を遣うように、極力静かに。
「ここが香奈の部屋だけど。どう?何か解かりそう?」
「……さァ……。コレ以上の事が解かるかどうか……」
 何処か上の空で返す。「コレ以上」に含まれる微妙な意味合いニュアンスには、聡美は全く気付かずに流してしまう。
「そう……。じゃァ私は出てるから。好きなだけ――って言っても、香奈の私事プライバシーには出来るだけ触れないでは欲しいんだけど……まぁ、あまり気にしないで探していって頂戴」
 言っている事に矛盾があるが、言いたい事は伝わったようだ二人からも短い返事があった。
 閉めたばかりの扉を開けた。敷居をまたいで玄関前に出ると、扉を閉めようとし――数秒の逡巡で踏み止まる。
(見納め……かしらね?)
 愛娘の変わりに余所様よそさまの男の子がいる部屋を見回して、一人ごちた。
 娘の生前はただの"物"でしかなかった品物は、全てが思い出の"宝物"に変わっている。だが、いつまでもこのままにしておいてはいけないだろう。
(いつまでの香奈の詞を引き摺ってちゃ、あのだって浮かばれないし……ね)
 スッと。瞳に目蓋を下ろせば、そこは思い出の映画館。昔日の香奈の姿と共に、涙が形となって流れ出る。
「聡美……おばさん?」
 呼ばれ、慌てて目じりをこする。指の腹を涙が薄膜となって包んだ。
「大丈夫。何でも無いの」
 無理矢理な元気を笑顔に押し込んで、聡美は鈴木に笑って返した。
(忘れなくっちゃ。涙を流さない為にも……。香奈だって、きっとそれを望んでいる)
 優しい子だったから。親が子を想う以上に、いつも親を励ましていたから。
 そう、哀しみは忘れてしまった方が良い。涙を見せなくても済むように。
「おばさん」
 扉を閉めようとした聡美を引き止めたのは、稲村の呼び声。
 何かと思い視線を向けたが、稲村は背を向けたままこちらを振り向こうとはしなかった。
「何?」
「忘れちゃ駄目だ」
 質問と回答は、同時に発せられた。
 自分の問いに重なる答えに、聡美は胸が脈打つのを感じた。ドキリとした驚きがそうさせたのだ。
 心が読めるの?そんな馬鹿げた疑念がよぎったが、すぐに否定した。理由は、読心それを肯定する常識を持っていなかったから。
「忘れちゃいけない。どんなに哀しくても、涙に濡れる事があっても。絶対に忘れちゃいけないんだ」
「ちょっと晃司君。どうしちゃったのよ、突然?」
 聡美に背を向けたまま、それでも稲村は喋り続けた。必死に、言葉のもどかしさに苛立つように。
「確かに"忘却"は哀しみを癒す特効薬さ。――そりゃそうだ。哀しみの原因が無くなれば、哀しむ必要も無くなるんだからさ。でも……それを故人が――香奈が喜ぶと、本当に思うか?どれほど香奈が優しい子だったかァ、正直俺は知らない。ケド、大好きだった人間に忘れられて……それで喜んでくれるヤツが、本当にいると思うか?」
 キィ……僅かに響く軋り音。
「忘れちゃいけないんだ。楽しかった事、嬉しかった事、可笑しかった事。それだけじゃなく、腹立たしく思った事も、切なかった事も、痛かった事も、傷付けられた事も、喧嘩した事も、何も無かった時間さえも。そして、今の哀しみも。忘れちゃいけない。そして、泣きたかったら泣いて、目ん玉真っ赤に腫らしたって良い。その張り裂ける程の哀しみだって、一年経てば、一月経てば、一日経てば、一秒経てば。それも香奈との思い出になる。忘れてさえやらなけりゃ――月並みな言葉だけど、香奈はいつまでも生き続けるんだ。……香奈だって、責めるもんか。自分の為に流してくれた涙を、責めるもんか。ただ忘れてやらなければ――いつまででも、笑っててくれる」
 俺の、両親のように。そっと、最後に付け加えた。
 バタン、と。稲村の最後の言葉を聞き終えてから扉が閉まったギシギシと言う鳴る足取りに、小さな嗚咽が付随していた。その嗚咽が難であったのか、稲村が考える事は無かった。
「全く……似合わない事その2、だね」
 鈴木へは一瞥さえもくれずに沈黙の裏拳。すっかり脆くなった顎を的確に狙い打つ。
「じめったい鬱陶しうっとい雰囲気が嫌いなだけだよ」
「無理しちゃって。ま、そう言う可愛かぁいい所も稲村のハイハイもう言わないからその小刀仕舞って仕舞って流石の僕にだって色々人としての限界って物があるんだからさ」
 振り上げた小刀片手に怒りで震える稲村を、諌めるようにして宥める。
「所でさァ」
 頭だけをスッとずらしながら鈴木は自ら話題を変えて言った。
「何だか今回、当事者でもないクセに随分と確信あったみたいじゃん?水島が〃世界〃に喰われた……て」
 耳元に響く「ドスッ」と言う重い音。壁に穴を穿ち、重力に逆らう形で突き立つ小刀を横目に、「どうして?」と更に言葉を繋げた。
 稲村は……暫しの沈黙。一瞬何かを考えるように虚空を見上げ、すぐに視線を下げる。
 首裏の髪を掻き乱す仕種は、言いたく無い言葉を口にする時、理不尽な現実を前にした時に見せる、彼の癖。
 ずらした首を元位置に戻すと、眉間の裏側に小刀が突き立っていると言う事実を確認しながら、鈴木は稲村からの回答を静かに待った。待つ、と言う程の時間を要したわけではなかったが。
「咲良、だよ」
「御姉?」
 頓狂な声だった。
「そう。咲良がよ、『水島は〃世界〃に捕われている』って言いやがったからだ」
「ふ〜ん……」
 打って変わって何の気も無い返事。だがすぐにフとした疑問が湧いて出た。
 表情をそれに合わせて、その疑問を直球ストレートに投げ掛ける。
「〃鍵師〃でも無い御姉の言葉だったんだよね?そんな簡単にその言葉を信じられたモンなの?」
 それは、どうやら稲村にとってイヤな質問だったらしい。「あ〜」とか「う〜」とか、下手クソな発生練習でもするかのような呻き声を上げながら、首裏を掻き乱していた。
 数秒間それを繰り返してから、漸く観念したかのように呟いた。
「咲良の言葉だったから……な」
 簡潔に纏められたその回答に、鈴木は全てを悟ったよとばかりに苦笑を洩らした。そして、一言呟いた。
「Love is blind...」



「あのアマの直感はよ」
 ズッと、低くくぐもった短い音が鳴る――稲村の耳にだけ聞こえる、微かな擬音だ――。同時に、稲村の左親指に走る鈍痛。見れば、横に一本裂傷が走り、じわりと血が滲み始めていた。八重歯に重ねて引いた為に出来た、自業自得の傷痕だ。
 それを満足げに――しかし痛みには不満げに――確認してから、鈴木に向き直った。
「科学的根拠の欠片も無いクセに、妙に鋭くて。しかも、その的中率は類を見ない」
 大の字に仰向あおむける鈴木の腹部に蹴りを入れる。ケペッと妙な悲鳴を上げるが、稲村はそれを聞かなかったとばかりに無視して「起きろ」と付け加えた。
「あのアマァ動物か?ってくらいにな。恐らく雌ベンガル虎」
「何故にベンガル虎?」
「その弟の鈴木ァ指し詰め雄プレーリードッグ」
「なんでベンガル虎の弟がプレーリードッグ?」
 キックの鬼張りの真空飛び膝蹴りを叩き込まれた顎に残る激痛で、顔を苦悶に歪めながらそれでもどうにか立ち上がった。
「その雌月の輪熊がはっきりと、こう言ったんだ」
「ベンガル虎は?」
「そう"感じた"ってな」
 自身特に考えあって例えたわけでもない事に対するツッコミは完全に却下。
「悔しいが……そう言った咲良の直感が外れた事。一度だってあったか?」
 記憶を手繰ったのは、恐らく一瞬だっただろう。鈴木は殆ど間髪入れずに同意の否定に頭を横に振った。
 「だろ?」と、苦々しげに――でも実はどこがもっと奥底では満足したように――短い言葉を吐き捨てた。
 その会話の間に、血の蜜は溢れてドロリと広がる。
 その量を頃合や良しと見て取ると、稲村は鈴木の両頬に手を添えた。
「鈴木。目ェ閉じろ」
 言われるままに、鈴木は目蓋を優しく閉ざした。
「稲村……」
 呟きは、いとおしむように、切なげに、でも何処か禁忌に触れる怖さに震えるように。
 鈴木はまだ若いその唇を柔らかく尖らせると、甘い吐息を殺して待った。
「鈴木……」
 返した稲村の言葉は、明らかな殺気と憎悪を溢れさせた憤りの嘆息。
柘榴ざくろって植物、知ってるか?俺も実物ァ見た事無いんだけどよ、辞典で読んだ所に因れば種を撒く時、真っ赤に弾け飛ぶらしいんだよな……。一度見てみたいとかねてから思っていたんだよ、俺ァ」
「ゴメン。真剣マジ悪かった。何かこう頭の奥から『メキョメキョ』って言う聞いた事無い音が響いてる気がするからさ。もうそろそろ堪忍して?ね?」
 頬に添えていたはずの掌はいつの間にか頭蓋を万力の如く締め付けていた。鈴木の顔色が青く染まるのは、恐らく圧砕の音と共に生まれる恐怖からだろう。
「ったく。虫酸むしずが走るようなホモっ気出しやがって……次やったら問答無用でその蛆虫がたかったような脳味噌かち割って猿の脳味噌として中華風に料理してやるからな」
 充分に釘を刺しながら、稲村は改めて頬に手を添え置いた。
「あ、そう言う発言、差別だと思う。恋愛対象を誰に置こうとそれは各人の自由なんじゃないの?恋愛の自由まで奪う権利は誰にも無いはずだよ?」
 目蓋を下ろしたまま、だが口だけは忙しなく、鈴木。
「自由じゃない。そんな自由が認められているのならストーカー法なんてモンまかり通らなかっただろうし、仮に法の下に恋愛の自由が認められていようと、俺の怒りが硫黄の雨メギドとなってそれを許しはしないだろう」
 先ず、鈴木の右目の下に、血に濡れた親指をスッと滑らせた。
「いつから基督キリスト教に宗旨変えしたのさ?大体、同性愛者ソドミィの何が悪いの?僕は何より先にそれが知りたい」
 右目だけを二・三度軽くまばたき、もう一度目蓋を閉じて次を待つ。
「気味が悪い、気色が悪い、気分が悪い、ケタクソ悪い。考えるだけでも吐き気がする。ストーカーと同じくホモ規正法を作るべきだと俺は考える」
 次いで左目にも同様の血化粧を施した。
「ストーカーとは違うような……」
 隈のように塗られた紋様を、生温なまぬるい温度の差異で確かめると、ゆっくりと目蓋を押し上げた。
「変質者も変態も変である事にゃ変わりゃせん」
 吐き棄てた言葉の後で、稲村は指で指し示した。稲村の正面、鈴木の背中越し、勉強机のすぐ前を。
 鈴木が、体ごと向き直った。そして、見た。いやさた。同時に、聞いた。
――望ムナラバ 否ミハセヌ
――拒ムナラバ 逃ガシハセヌ
――我レ 糧トナロウ
――汝レ 贄トナレ
 高く、低い声。鮮明で、嗄れた声。男性的であり、女性的な声。躍動感に溢れる、無機質な声。
 そのどれもがて嵌まりながら、そのどれもが的外れなその声は、ただ一言"不気味"だと言う言葉だけは普遍的に的確だった。
 えたのは光。楕円が崩れた卵型の不恰好な光の球体。大きさなら鈴木よりも大きくて、稲村よりも小さいくらいか?巨大な光体は燦然さんぜんと輝きながら、金色のその光は何処か物悲しかった。
 桁外れな光量だったが、目に突き刺すような痛みも無く、背けたくなるような眩しさも無かった。よくよく観察を続ければ、その光が作り出すであろう光と影の対称性コントラストが無い事に気付くはずだ。机の上にポツネンと転がる消しゴムから伸びる影も無く、陽光の届かない天井を照らす光も無い。
 光体はただ、そこに「在る」だけだった。
「……〃世界〃……」
 鈴木の呟きは、その交代の正体を的確に表わしていた。
 光体それはそう、〃世界〃と呼ばれるもの。人の望みの結晶体、人の望みにかなう人の望みが叶った世界。
「で?どうする?……返事は概ね予想済みだが。行くか?」
「当〜然!友達ほっぽらかして一人だけ高見の見物だなんて。ンな事してたら『稲村』って呼ばれちゃう」
 高速の廻し裏拳スピン・バック・ナックルが、鈴木の鼻面を襲う。
「さ、行くぜ。あの馬鹿連れ戻しに」
 言って振り上げた稲村の手が、淡く光を灯した。〃鍵〃が〃錠〃を破ろうと、刺し込まれた。
「連れ戻すのが可愛いお姫様じゃないのが減点だけどね」
「違いねェ」
 〃世界〃へ向かい、腕は振り下ろされる。〃鍵〃が回され、〃錠〃はその力を失った。そして――
 光が広がり、二人の姿を呑み込んだ――

to be continued...

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