残業しない女
著者:久我山 濯

 こんな会社に入るんじゃなかった。
 静枝は乱暴にキーを叩いて、作り終えた書類を印刷した。真新しいレーザープリンターが唸りを上げて、顧客のリストを印刷していく。
 溜め息をひとつついて辺りを見回すと、時計はそろそろ11時半。誰もいないオフィスには、静枝の頭上だけに電気がついており、限りなく静かだ。
 思いがけず決まった、大手不動産会社への就職。
 うかれていたのも束の間、とても一人でやれる量ではない。仕事はきつく、今日のように一人で遅くまで残業することなど、毎日のことだ。
「本当にもう、誰か手伝いなさいよ! もうやめた! 明日やろう、明日!」
 リストの束を机の引出しに放り込み、静枝はパソコンに向き直った。始めは会社のものを私用で使うことなど考えもしなかったが、今ではインターネットを覗いてから帰るというのが日課になってしまった。一日の仕事の愚痴を、行きつけのチャットルームでぶちまけるのだ。
 毎日のように通っているので、アドレスを入力するのは速い。静枝の課で共有しているパソコンなので、お気に入りに追加することは出来ないし、終わりにするときには履歴を消して帰らないと見つかってしまうからだ。

 メンバーは誰も来ていないようだった。静枝はがっかりして、今日はもう帰ろ
うかと思った時だった。

 >悪魔貸します。どんな悪魔をお望みですか?

 ”ペルデュラボー”と名乗る人物の発言だった。初めて見る名前だが、悪戯だろうか?
 静枝は興味半分からかい半分で、この発言に応えることにした。
「じゃあ、貸してみなさいよ。えーと”仕事を手伝ってくれる悪魔を貸して下さい。課長の命あげますので(笑)”」
 課長には、昨日仕事の進みが遅いと小言を言われたので、別に生贄にしてもいいと思った。

 >では、フルーレティをどうぞ。課長の命はレンタル料ということで。

 ペルデュラボーはすぐに返事を返してきた。フルーレティって何だろう?レンタル料ということは、期間が終わると課長は死ぬのだろうか?


「じゃあ、6時に本郷駅でね」
「御霊前って、袱紗から出して渡すんだよね?」
「静枝、そろそろ行かないと間に会わないよ」
「待って、これだけやっちゃうから」
 黒装束の同僚を一瞥して、静枝はパソコンのディスプレイに目を向け、何も起動していない画面に”fleuretty”と打ち込んで、Windowsを終了させた。
「お待たせ、行こう」
 あとは、残業しなくてもフルーレティがやってくれる。
 早く、レンタルの継続料を払わなくては。
 静枝は課長の葬儀会場へ向かいながら、同僚達の顔を見回した。


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